——ピアニストとしての豊増昇さんという方は、戦前からヨーロッパ各地でリサイタルを開いて注目を集め、日本でもたくさんの演奏会をされていました。1956年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に日本人初のソリストとして招かれて、フランクの「交響的変奏曲」を演奏するなど、日本とヨーロッパで大活躍されていたのですね。
龍子 戦前のことはほとんど知りませんでしたが、戦後、私が子どもの頃は、各地を旅行したり、演奏会の準備をしたりと本当に忙しかったように記憶しております。
——その豊増さんと小澤征爾さんの出会いは、どのようなきっかけで生まれたのでしょう?
幹雄 これには我々の父が関係しているのですが、ご存知のように父は戦前の満州で歯医者をし、それを辞めて政治活動をしていたのです。その時代に、北京で作った新民会という組織がありまして、そこで親しかった仲間に豊増先生の兄・秀俊さんがいらした。
征爾にピアノを本格的に習わせようとなった時に、父が「友人の弟が有名なピアニストらしい。紹介してもらおう」と言い出して、それで豊増先生にピアノを習い始めることになったのです。征爾が成城中学に入った年(1948年)からでした。
——その頃の征爾さんの雰囲気はどんなだったのでしょう?
龍子 まだ私も小さくて、それほどはっきりとは覚えていませんが、活発な感じで、普通のピアノのお弟子さんとはちょっと違う雰囲気をお持ちだったと思います。
幹雄 征爾は中学時代、ラグビーにのめり込んでいたので、豊増先生のレッスンに行く前の時間帯も、実はラグビー部の練習に参加していて汗だらけ、もしかしたら服も汚れていたに違いないと思います。多分、手を洗うこともしなかったかも。だから豊増先生のレッスン室のピアノの鍵盤には、グラウンドの砂が零れていたかもしれないと思います(笑)。
龍子 (笑)それはよく分かりませんでしたが。
ふだんは練習室に入れないのですが、1回だけ父のピアノを近くで聴かせてもらったことがありました。ズーンという音で、タッチがすごいんですよ。指の力がほんとうに強靭で。だからあんなふうに音に変化を出せるのですね。ペダルもあまり使わない人でした。(龍子)