幹雄 そんななかで兄がよくこぼしていたのは、「豊増先生は僕にはバッハしか課題を与えてくれない。他の先輩たちはショパンやリストなどを弾いているのに。僕もショパンが弾いてみたい」ということでした。
——それはずっとだったのですか?
幹雄 ずっとバッハばかりだったそうです。
——もしかすると、豊増先生はバッハを課題として与えることが征爾さんにとって何か大事なことだと思われていたのかもしれませんね。
幹雄 それは確認しようもないのですが、兄が後年言うには、「バッハをみっちり叩き込まれたことが、あとあと、役に立った」と。
龍子 おそらく父は、生徒さん一人ひとりに違う課題を与えていたのでしょう。それぞれの個性をきちんと見分けて、それに合った課題を与えるという教え方をしていたように思います。
『ピアノの巨人 豊増昇』を作るときに、古い資料を集めていたら、戦前のヨーロッパの新聞に大きく豊増先生の演奏活動が載っていました。ベルリンの批評家が褒めていたり、「日本人がバッハを弾いた」というような見出しもありました。
征爾もヨーロッパでデビューしたころ、「日本人なのによくバッハがわかるな」と言われたそうです。それは誉め言葉ではなくて、本当はわかっていないだろうという差別的な意味でした。そういわれなくなったのはデビューして5年も6年も経ってから。征爾は「俺の使命は、東洋人がどこまで西洋音楽ができるかということの実験であり、役目だ」ということをずっと言っていましたね。サイトウ・キネン・オーケストラもその一環だと。(幹雄)