さて、アントニオは少年時代からお父さんの意向で音楽と司祭になる教育を受けて下級の司祭になりました。音楽家は不安定な職業ですから、お父さんは聖職者になっておけば将来が安心と考えたのでしょう。ところが、生まれたときから虚弱体質で喘息ぎみだったこともあって、司祭の仕事は自分からあまり進んでしませんでした。
1810年に書かれたフランスの事典にこんな記述があります。「ある時ヴィヴァルディがミサを執行していると、フーガのテーマが頭に浮かんだ。そこでミサを途中でやめて祭壇を離れ、そのテーマを書き留めるために聖具室に駆け込んでミサを続けた。人々は異端裁判所に告発したが、裁判所は彼を音楽家、要するに気違いだからしかたがないと結論して以後ミサの執行を禁止させられた」。
結局、ヴィヴァルディは1703年に当時のヴェネツィアにあった4つのオスペダーレ(慈善院、養育院、貧窮院などと訳されます)の一つ、ピエタ慈善院で音楽教師、とりわけヴァイオリンを教える仕事に就きます。
慈善院は経済的な事情などで親が手放した赤子を引き取って育てる施設。実は女子だけではなく男子もいましたが、男子はたいてい手に職をつけて16歳ころには外に出され、女子は結婚するまで同院で暮らしました。