バイロイト歌劇場では、“異常”な体験ができるらしい

飯田 ワーグナーのファンは、彼の自己顕示欲強めの音楽が、いいわけなんですね。

広瀬 4夜かけて一つの歌劇をやろうなんて、普通なら「頭おかしい」と言われる。他に同じようなことをやってのけた人はほとんどいませんからね。

説明しよう!

ワーグナーの代表的な楽劇『ニーベルングの指環』は序夜《ラインの黄金》、第1日《ワルキューレ》、第2日《ジークフリート》、第3日《神々の黄昏》の4部からなり、上演には4日、15時間ほど要するというヤバい超大作。

飯田 やはり、みんな付いていけないのも……。

広瀬 普通だと思います。付いていける人のほうが特殊です(キッパリ)。あまりにも付いていきたくて、毎年日本からバイロイトまで行っちゃう人もいますからね。まぁ、私なんですけど(笑)。でも、あそこでしか体験できないものがやっぱりあるんですよ。他の歌劇場では絶対体験できないものが。

飯田 それって、どんな体験なんですか?

広瀬 まず、オーケストラ・ピットが客席から見えないっていうのは有名です。普通の歌劇場だと、指揮者とオケは普通に客席から見えますよね。でもバイロイト祝祭劇場は角度的に客席からピットの中は見えない構造になっている。さらに、開演前に客席も真っ暗になるんですよ。完全な闇。上演が始まる直前に、バターン! バターン! バターン! って、全部の扉という扉が大きな音とともに閉められて、もう逃げられない。閉所恐怖症の人は割と怖いんじゃないかな。

一同 ……。

広瀬 真っ暗だから指揮者がいつ入ったのかとか、もちろん全然見えない。みんなシーンとするじゃないですか。その暗闇の中で、《パルジファル》の第1幕への前奏曲が響いてくる。でも、どこから聞こえてくるのかわからないんですよ。オケがピットで弾いているはずなんだけど、本当にわからない。というのは、劇場は全部木造で、客席の下が空洞なんですよ。劇場全体が楽器のように響くんです。席によってはお尻の方から何かが響いてくる感じがしたり、ものすごく不思議な響き。それだけで引き込まれちゃうんですよ!

飯田 その劇場って、ワーグナーが設計に……

広瀬 (食い気味で)関わってます! だから、そのように計算されているわけです。

飯田 その恐ろしい設計の劇場が、現代まで保たれているんですね。もちろん、安全面などはいろいろ考慮されているとは思いますが。

広瀬 安全面? 全然。当然、冷房なんかない。昔もなければ今もない。

飯田 え……。

バイロイト歌劇場の中を想像してみます

広瀬 しかも音楽祭は夏にしかやらない。暑い。最近のヨーロッパは日によって本当に暑くって、湿度はマシですが、日中の陽射しとかは日本より強いかもしれません。外がものすごく暑くなると、「今、屋根に水をかけています」なんてお知らせがあるんです。屋根に打ち水しても、まさに焼け石に水では? って思う(笑)。劇場内は扉全部閉めちゃうので、空気の出入りも僅かだと思います。

編集部M なんで、わざわざそんなサウナみたいなところで、何時間も……

広瀬 (食い気味で)しかもみんな、フォーマルな格好をしてくる。さすがに上着は脱ぎますが。水分もとらない。危ないですね。脱水症状になりかねない。しかも客席は真ん中に通路がないので、だれか真ん中の人が倒れたら、その列に座ってる観客が全員立ち上がって、倒れた人をダーッと搬送するんです。

編集部M え、倒れる人がいるってこと?

広瀬 バターン! って音がするんですよ。

飯田 倒れてるんだ、やっぱり。

広瀬 あ、今、だれか倒れたなって。よくあります。

一同 ……。

編集部K  音楽で失神するのではなく、暑さで?

広瀬 暑さでしょうね。音楽で失神したいですが(笑)。わりと過酷。命懸けです。でも、その過酷さを上回るほどの音楽が聴けるとみな知っているので、そこに行くんですよね。

編集部M 極限状態で聴くから、洗脳じゃないですけど、余計に良さを感じちゃうみたいなのは……?

広瀬 それもあるかもしれません。だけど、ちゃんと集まる理由はあります。バイロイトに集う歌手たちは、ワーグナー歌い、とも賞される現代最高峰の人たちばかりです。ちょうどその時期、ドイツの歌劇場は夏休み。オケもみんな1、2か月バカンスの時期なのに、それでも休みたい気持ちを上回るほど、ワーグナーを演奏したいと思うオーケストラの人たちが、ドイツ中からやってきて、そのひじょうに暑い、半分蓋で閉じ込められたようなピットの中で、ワーグナーを演奏し続けるんです。誰にも見えないので、本番でも普通の服で演奏してますけどね。

本番とリハでほぼ2か月、自分の大切な夏休みを犠牲にしてでもワーグナーを演奏することに喜びを見出す人たち。ここで聴くワーグナーは、他の劇場で聴くワーグナーとは全然違うんです本当に。このライトモティーフは絶対こう聴きたい! みたいな演奏をちゃんとやってくれる。ワーグナー作品、そのストーリーと音楽を全部理解していて、説得力あるように弾いてくれるので、毎年通い詰めているようなベテラン聴き手の耳をも満足させる。他の歌劇場では絶対に聴けない演奏なんです!

編集部M そんなにいるんですね、オケマンのワグネリアンが。その人たちにインタビューしてみたいですね。「あなたたち、休暇はいらないんですか?」って。

広瀬 ワーグナーをバイロイトで演奏するのが、最大の癒やしなんですよ(真顔)。バイロイトは田舎なので、ドイツのどの大都市からもわりと行きづらいんですよ。中距離列車でしか行けない新幹線が通ってないようなところ。ベルリンやミュンヘンからだと、車のほうがアクセスしやすいと思います。

飯田 以前わたし、シュタイングレーバーというピアノの工房がバイロイトにあって、そこを訪問したことはあります。遠かった。でもビールは美味しかったな。Mさん、行ってみたくなった?

編集部M ま、まずは一番短い演目のときに……。

広瀬 だったら《さまよえるオランダ人》ですね! 2時間15分。休憩はないけど。