ブルックナーの生涯と主要作品
ブルックナーの生涯と主要作品を音楽学者の根岸一美が解説!
文―根岸一美(音楽学者)
ブルックナーの生涯
オルガニストとして活躍のかたわら作曲の指導を受ける
オーストリアの作曲家。教師の息子として生まれ, 初めは父親から, 次いで従兄のヴァイスから音楽の指導を受けた。12歳の時に父親が亡くなり, 聖フローリアン修道院に合唱児童として受け入れられ、同地の国民学校に転校した。音楽は修道院で学んだが、父親と同様教師になることを目指し, リンツの教員養成所での準備を経て, ヴィントハーク, クローンストルフで教師を務めた。1845年, 聖フローリアンの母校に教師として迎えられ, やがてオルガン演奏のすぐれた能力を認められ, 51年, 修道院オルガニストに任命された。既に48年には大作《レクイエム Requiem》を書いていたが, 55年,ウィーン音楽院(現ウィーン音楽大学)教授で音楽理論家のジーモン・ゼヒターより, 主として通信教育による指導を受け始めた。
56年, リンツの大聖堂ならびに市教区教会オルガニストに着任した。61年3月にはゼヒターによるレッスンを修了したが, 同年12月よりオットー・キツラーから音楽形式と管弦楽法についての指導を受け, 習作として弦楽四重奏曲や交響曲ヘ短調を書いた。またこの時にヴァーグナーの《タンホイザー》を学んだことが, 生涯にわたって彼を崇敬する発端となった。63年7月に修業が終了。ニ短調ミサ曲, 交響曲第1番, ホ短調ミサ曲を作曲したが, 67年, 神経の病を得て, 3ヶ月間鉱泉での療養の日々を送った後, 翌年9月, リンツ時代の最重要作というべきヘ短調ミサ曲を書き上げた。なおブルックナーは63年に知り合ったマイフェルト夫妻を通じてベートーヴェンの作品に親しむようになり, やがて交響曲第9番を聴く機会を得た。この曲がブルックナーに与えた影響は大きく, 交響曲の主題や楽章の構成など, 様々な面に現れることになった。
ウィーン音楽院の教授に就任、交響曲第1~5番を作曲
67年, ゼヒターが亡くなったことをうけて, 既に合唱祭などで知り合っていたウィーン宮廷楽長のヨハン・ヘルベックがブルックナーに接近し, 後任を目指すよう強く勧めた。ブルックナーはリンツから離れることを躊躇していたが, 結局志願し, 68年10月ウィーン音楽院に, 和声法, 対位法, オルガンの教授として着任した。ウィーン時代初期には, オルガン奏者としてフランスやイギリスへの演奏旅行に招かれる一方, ニ短調の交響曲を作曲した。これは「第0番」と称されているが, 交響曲第1番より後に書かれただけでなく, 晩年の作曲者自身が価値の無い作品と判断しており, むしろ「無効」と称されるべき作品である。72年, 交響曲第2番を完成し, 73-78年, 第3番, 第4番, 第5番を書いたが, それらはわずかの例外を除いて演奏の機会に恵まれず, 70年代の後半は「第一次改訂の波」と呼ばれる既完成作の見直しの日々ともなった。77年12月16日, ウィーンの楽友協会大ホールで交響曲第3番の第2稿による初演が行われたが大失敗に終わり, 2週間後に同じ会場で初演され, 大成功となったブラームスの交響曲第2番と著しい対比を見せた。
交響曲第7番がニキシュの指揮で初演
79年に完成した弦楽五重奏曲から, 交響曲第6番, 第7番, そして84年完成の《テ・デウム Te Deum》までは, 比較的順調な歩みとなった。とりわけ84年12月にライプツィヒでニキシュの指揮により行われた交響曲第7番の初演は, ブルックナーが国際的な交響曲作曲家として高く評価される第一歩となった。しかし同年に書き始められた交響曲第8番が, 第7番を称讃したミュンヘンの指揮者ヘルマン・レーヴィの理解を得られなかったことから自信を失い, またも旧作の改訂を始めた(第二次改訂の波)。その結果, 第8番は第2稿が完成して92年にH.リヒターの指揮で初演されるに至ったものの, 第9番は未完に終わった。この曲については近年第4楽章の補筆完成の試みがいくつか行われているが, すでに第3楽章までで高度な完成を見せていることは疑いえないであろう。
旧全集「ハース版」が刊行
ブルックナーの交響曲の出版は,演奏と同様,困難な道を辿った。まず1878年に第3番(第2稿に基づく)の出版が行われたが,その後出版が行われるようになるのはようやく1880年代の中頃からである。しかしこれらの初版譜は,出版に際して弟子たち(ヨーゼフおよびフランツのシャルク兄弟、フェルディナント・レーヴェら)が介入しているものが多く、管弦楽の扱いが変更されたほか,楽章の大幅な短縮が行われている例もある。しかしブルックナーは自身の原稿をウィーン宮廷図書館(現オーストリア国立図書館)に遺贈しており,これをもとに1931年, 旧全集の刊行が開始された。主たる校訂者はローベルト・ハースであり, そのためこれらは「ハース版」と称されることが多いが, 交響曲第9番の校訂はアルフレート・オーレルが担当している。旧全集は初版譜における上記の問題を解決することに力を注いだが、そのために個々の交響曲について,ただ一つの「原典稿Originalfassung」という観念にとらわれていた面も否定できない。
ノーヴァクのもと新全集が刊行
戦後はレーオポルト・ノーヴァクのもとに, 1951年より新全集の刊行が開始された。編集にあたって, 旧全集で出版されていた巻については同じ印刷プレートを再使用し, 必要な修正を施す形が採られた。新全集における最も際立った特徴は, ブルックナーが一つの「作品」についてその都度残した複数の「稿」を, 互いの芸術的優劣を論じることなく, 客観的にそれぞれ独立に出版したことにある。しかしその結果として, 一つの交響曲についてあまりに多くの段階の楽譜が出回ることになり、いったいどれがブルックナーの本来の作品なのかが判りにくくなっていることも, 彼の音楽の特殊な在り方を形成しているといえよう。
長大かつ荘厳な交響曲と、信仰の表現としての宗教音楽
ブルックナーの最大の功績は, 長大かつ荘厳な交響曲により, 後期ロマン派音楽の深い表現世界をつくりあげたことにあったが, 他のジャンルでは, ミサ曲や, 同じくラテン語の歌詞によるモテットをはじめとする宗教音楽が重要である。これらの曲は敬虔なカトリック教徒であったブルックナーの信仰の表現としての意味を持ち, また実際に礼拝用の音楽としても用いられている。さらに, ミサ曲や《テ・デウム》などには, 交響曲において引用されることになる楽句が見られ, 交響曲における宗教的源泉を窺わせる。また, リンツ時代に男声合唱団に属していたことから書かれた多くの世俗合唱曲は, 演奏されることはきわめて少ないが, 19世紀のドイツやオーストリアの合唱活動を伝えるドキュメントとしての意味を持つ。室内楽では弦楽五重奏曲が重要作である。
交響曲作曲家としての名声の確立と日本における受容
ブルックナーの交響曲は, 例えば同時代のブラームスの場合と異なり, ハンスリックをはじめとする批評家たちから, とりわけ形式の見通しが悪いとして, 繰り返し非難された。しかし第7番が国際的に幅広い受容と評価を得たことが発端となり, 20世紀前半までに交響曲作曲家としてのブルックナーの名声は確立した。日本では, ヨーゼフ・ラスカと宝塚少女歌劇の管弦楽団員によって組織された宝塚交響楽団が1931年に交響曲第4番を演奏し, これがブルックナー交響曲の本邦初演となった。戦後においては, 大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮してブルックナーの交響曲を数多く演奏した朝比奈隆の貢献が特筆されよう。
ブルックナーの主要作品
WABはレナーテ・グラースベルガーによる「ブルックナー作品目録」で与えられた番号
【交響曲】
f WAB99 1863 ; d 《無効》 WAB100 1869 ; No.1 c WAB101 第1稿1865-66改訂77, 84, 89 第2稿90-91 ; No.2 c WAB102 第1稿1871-72改訂73, 76 第2稿77改訂92 ; No.3 d WAB103 第1稿1872-73改訂74 第2稿1876-77改訂77-78, 78-79 第3稿87-89 ; No.4 Es 《ロマンティック》 WAB104 第1稿1874 第2稿78-80改訂81, 86 第3稿88 ; No.5 B WAB105 1875-76改訂77-78 ; No.6 A WAB106 1879-81 ; No.7 E WAB107 1881-83 ; No.8 c WAB108 1884-87 第2稿87-90 ; No.9 d WAB109 1887-96未完
【管弦楽曲】
行進曲 d WAB96 1862 ; 3つの小品(Es, e, F) WAB97 1862 ; 序曲 g WAB98 1862-63
【吹奏楽曲】
行進曲 Es WAB116 1865
【室内楽曲】
弦楽五重奏曲 F WAB112 1878-79 ; 間奏曲 d (2vn, 2va, vc) WAB113 1879 ; 弦楽四重奏曲 c WAB111 1862 ; 夕べの鐘 (vn, p) WAB110 1866
【ピアノ曲】
シュタイエルマルク地方の踊り G WAB122 1850? ; 3つの小品(G, G, F 4hds) WAB124 1853-55 ; 秋の夕べの静かな想い fis WAB123 1863 ; 幻想曲 G WAB118 1868 ; 思い出 As WAB117 1868?
【オルガン曲】
前奏曲とフーガ c WAB131 1847 ; フーガ d WAB125 1861 ; 前奏曲 C WAB129 1884
【ミサとレクイエム】
ヴィントハーク・ミサ曲 C WAB25 1842? ; ミサ曲 d WAB146 1844? ; 聖木曜日のためのコラール・ミサ曲 F WAB9 1844 ; レクイエム d WAB39 1849 ; ミサ・ソレムニス b WAB29 1854 ; ミサ : No.1 d WAB26 1864改訂76, 81, 82, No.2 e WAB27 1866改訂76, 82, No.3 f WAB28 1867-68改訂76, 77, 81, 90年代
【モテット】
リベラ・メ(主よ、我らを解き放ちたまえ) F WAB21 1843-45 ; タントゥム・エルゴ D WAB32 1845 ; アヴェ・マリア : F WAB5 1856, F WAB6 1861 ; 聖守護天使に―すでに明るく星は曻り e WAB18 1868 ; パンジェ・リングァ WAB33 1868 ; グラドゥアーレ : この場所は神が作り給う C WAB23 1869, 正しい者の口は知恵を語り WAB30 1879, キリストはおのれを低くして : WAB10 1873, WAB11 1884 ; エサイの枝は芽を出し WAB52 1885 ; めでたし天の女王 WAB8 1886? ; 王の御旗は翻る WAB51 1892
【アンティフォナ】
主よ、ヒソプもて我に注ぎたまえ F WAB3 1843-45 ; マリアよ、あなたはことごとく美しい WAB46 1878 ; 救いたまえ御身の民を WAB40 1884 ; 見よ大いなる司祭 WAB13 1885
【その他の宗教曲】
祝祭カンタータ《主を讚えよ》 D WAB16 1862 ; マニフィカト B WAB24 1852 ; 詩編 : 22番 Es WAB34 1852?, 114番 G WAB36 1852, 146番 A WAB37 1858頃, 112番 B WAB35 1863, 150番 C WAB38 1892 ; テ・デウム C WAB45 1881-84
【合唱曲】
祝典の歌 D WAB67 1843 ; ドイツ祖国の歌 Des WAB78 1845? ; 気高き心 A WAB65 1851? ; 夕空 : 第1作 As WAB55 1862, 第2作 F WAB56 1866 ; ゲルマン人の行進 d WAB70 1864 ; 真夜中に : f WAB89 1864, f WAB90 1886 ; 秋の歌 fis WAB73 1864 ; 祖国の酒の歌 C WAB91 1866 ; ああ君を幸福にできさえすれば(祖国の歌) As WAB92 1866 ; 夕べの魅惑 Ges WAB57 1878 ; 夢と目覚め As WAB87 1890 ; ドイツの歌 d WAB63 1892 【歌曲】春の歌 A WAB68 1851 ; アマラントの森の歌 G WAB58 1856 ; 秋の悲しみ e WAB72 1864 ; 四月に As WAB75 1868 ; 僕の心と君の声 A WAB79 1868
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