読みもの
2021.02.13
2月の特集「鬼」

『鬼滅の刃』のころ、宝塚の旗揚げ公演を飾った“鬼”オペラ《ドンブラコ》

人気漫画『鬼滅の刃』の舞台である大正初期に、日本最初期のオペラ、しかも「鬼」が登場するオペラが上演されていたのをご存知ですか。音楽評論家の増田良介さんが、このオペラの作曲家にまつわる世代を超えた胸熱ストーリーも絡めて紹介してくれました。

「夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史」より

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明治に生まれた、日本最初期の本格オペラ

今、鬼といえば『鬼滅の刃』だ。この漫画作中のセリフなどをよく調べると、物語の始まりは1912年(大正元年~2年)あたりと推定できるらしい。

実は、まさにこれと同じころ、現実の日本では、鬼の登場するひとつのオペラが人気を博していた。北村季晴(すえはる/1872-1931)の作曲した《ドンブラコ》だ。題名の通り、この作品は、日本で「鬼」の登場するもっとも有名な物語、昔話の『桃太郎』をもとにしている。

北村がこの作品に着手したのは1907(明治40)年、歌舞伎座で初演されたのは1912(明治45)年だから、『鬼滅の刃』の時代の直前だ。『鬼滅の刃』なら、人間社会に潜んで裕福な生活をしている鬼舞辻無惨あたり、観に行っていても不思議はない。

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《ドンブラコ》の作曲者、北村季晴は東京生まれ、東京音楽学校(現東京藝術大学)師範部を卒業したあと、長野県師範学校教諭などを務めたのち、東京に戻り、三越音楽部主任となった。彼が設立に関わった三越少年音楽隊は、日本における最初のプロ・オーケストラの試みのひとつとも言える。

また、代表作のひとつ、従軍兵士を主人公とした叙事唱歌(カンタータのようなもの)《露営の夢》は、1905(明治38)年に歌舞伎座でオペラとして上演されたことがあり、日本の創作オペラ第1号とされる。この人、あまり有名ではないかもしれないが、かなりすごい人なのだ。

彼の作品のうち、現在もよく知られているのは、《信濃の国》だろう。彼が長野にいた1900(明治33)年に作った歌で、現在は長野県歌となっている。都道府県歌というのはあまり知られていないものが多いが、これは例外で、長野県民なら、たいてい歌えるのだそうだ。長野オリンピックの開会式にも使われたし、サイトウ・キネン・フェスティバルでは、松本城の大庭園に県内の児童生徒、一般人の吹奏楽が集まり、小澤征爾の指揮で演奏されたこともある。

鬼ヶ島では鬼たちが歌い踊る? 宝塚の第1回公演でも上演!

さて、《ドンブラコ》は、子どもが見ることを想定して書かれた「お伽歌劇」だ。おもしろいのは、「ここはどこの細道じゃ」とか、「ひらいたひらいた」とか、「霞か雲か」(ドイツ民謡だが)とか、当時有名だった歌のメロディをふんだんに取り入れていることだ。

誰もが知っているストーリーで、誰でも耳なじみのあるメロディを使っているので、オペラになじみのない日本人でも楽しめる。日本にオペラを根付かせようというなら、これ以上の戦略はないだろう。

その一方で、「ドンブラコ」というリズムを全体を通してさまざまな形で使ったり、三重唱や四重奏を取り入れたりと、本格的なオペラの技法もちゃんと使っている。

この曲は、2009年に、宇野功芳指揮アンサンブル・フィオレッティによる録音が出ているので、それを聴けば実際に確認することができる。

ストーリーは、桃から生まれた桃太郎が、犬、猿、雉(犬野腕三郎、真白野猿之助、雉山拳蔵という名前が付いている)に、きびだんごを与えてお供にし、鬼ヶ島に攻め込み、財宝を持ち帰るという、おおむね原作(?)に忠実なものだ。

ただ、肝心の鬼の描き方はちょっと変わっている。この歌劇に出てくる鬼は、ずいぶん平和的なのだ。桃太郎一行が鬼ヶ島に近づくと、鬼たちが「ラーラーラー」とコラール風の合唱をオルガンの伴奏で歌っているのが聴こえる。野蛮にも、そこに攻め込んだ桃太郎軍は、奮闘の末、鬼王を組み敷き、鬼たちと講和条約を結び、宴となる。

宴の場面では鬼たちが合唱し、鬼王の娘が舞踏、鬼王が独唱を披露する。それに応えて桃太郎や犬猿雉も舞を舞う。ただ、戦いの場面にも宴の場面にも楽譜はなく、活人画と語りで描かれることになっている。その後鬼ヶ島から凱旋した桃太郎たちは萬歳萬歳と熱狂的な歓迎をうけ、最後は「帝国萬歳!」と全員で君が代を歌って結ばれる。このあたりは日清、日露戦争後の時代の空気が色濃く反映されている。

ともあれ、歌舞伎座で行なわれた初演は評判になり、レコードも発売され、人気を集めた。若き日の古関裕而なども感銘を受けたらしい。

さて、《ドンブラコ》は、1914(大正3)年3月、宝塚少女歌劇の第1回公演で上演されたことでも知られている。

これは、阪急の創業者小林一三が東京での初演を観て、この作品を選んだということのようだ。なお、この公演では、管弦合奏と合唱、舞踊(白妙、胡蝶の舞ほか)、そして、歌劇《ドンブラコ》と《浮れ達磨(うかれだるま)》が上演された。桃太郎役を演じた高峰妙子(1899〜1980)は当時14歳、宝塚歌劇団最初の男役スターとなった。

1914年4月1日、宝塚少女歌劇第1回公演《ドンブラコ》「第三場 鬼が島海上の場(鬼が城討ち入りの段)」。
「夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史」より

日本オペラ黎明期の2人は、祖先も『源氏』を巡るライバルだった!

ところで、このとき同時に上演された《浮れ達磨》は、本居長世(1885〜1945)の作曲した、短いオペレッタ的な作品だ。本居は北村より13歳年下、北村とともに、日本オペラの黎明期に活躍した作曲家で、童謡「七つの子」や「十五夜お月さん」で知られる。

また、《浮れ達磨》の作詞者である吉丸一昌(1873-1916)は、北村の親しい友人でもあった。

吉丸は、中田章作曲「早春賦」の作詞者でもある。

実は、二人の作曲家、北村季晴と本居長世には、ちょっとした因縁がある。北村季晴の先祖には北村季吟(きぎん)、本居長世には本居宣長という、いずれも江戸時代の高名な国学者がいる。

北村季吟(1625-1705)。
江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。
本居宣長(1730-1801)。
江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。

季吟の代表的な著作が、全60巻からなる源氏物語の詳細な注釈書『湖月抄』だ。これは、それまでの『源氏』論の集大成とも言えるもので、その後長らく、『源氏』の注釈書として絶大な権威をもった。

だが、儒教や仏教の影響を受けて、『源氏』を勧善懲悪、あるいは好色のいましめとする、中世以来の『源氏物語』観を受け継いだ『湖月抄』に対し、季吟を大いに尊敬しつつ、「もののあはれ」という斬新な概念をひっさげて、『源氏』を純粋な物語として正しく理解しようとしたのが本居宣長だった。

つまり、季吟と宣長は、時代を超えて対立した、新旧『源氏』解釈の代表的な論者だったわけだ。それが、時はめぐって大正時代、その二人の子孫が、良きライバルとして、今度は日本オペラの確立のために、ともに力を尽くすとは、なかなかの胸熱な展開ではないだろうか。

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