飯尾洋一の音楽夜話 耳たぶで冷やせ Vol.1

ふたつの「音楽家小説」

読みもの
2018.04.07

人気音楽ジャーナリスト・飯尾洋一が、いまホットなトピックを音楽と絡めて綴るコラム。連載第1回は、ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの異色作『充たされざる者』と、イアン・マキューアンの『アムステルダム』をご紹介。未読の人は、読みたくなること間違いなし。

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飯尾洋一 音楽ライター・編集者
飯尾洋一
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音楽ジャーナリスト。都内在住。著書に『はじめてのクラシック マンガで教養』[監修・執筆](朝日新聞出版)、『クラシック音楽のトリセツ』(SB新書)、『R40のクラシッ...

主人公は世界最高のピアニスト カズオ・イシグロ『充たされざる者』

 「音楽家小説」といったらいいのだろうか。音楽家が主人公に設定されるタイプの小説がある。そのなかでも、もっとも強烈なインパクトを受けたのが、2017年にノーベル文学賞を受賞したイギリス人作家、カズオ・イシグロの野心作『充たされざる者』である。主人公は音楽史に名を残すような世界最高のピアニスト。ある小さな町で開かれるコンサートに招かれたところから物語が始まる。マネージャーらしき人物やホテルマンとの会話から、どうやら滞在中は猛烈にタイトなスケジュールが組まれているようなのだが、主人公は自分がなにをすべきか、よくわかっていない。そこに次々と登場人物があらわれ、みな慇懃無礼な態度で主人公に小さな頼みごとをする。快く引き受けたものの、スケジュールは見えないままで、次第に主人公は焦燥感を覚える。

 読み進めるうちに、なんだかこの話はおかしいと気づく。どうやらこの話には一貫した合理性がなく、まるで夢(というか悪夢)のように不確かな世界なのだ。登場人物たちもそれぞれに主人公の過去や未来を投影したような人物で、まるで自分の一部が他人になってあらわれたかのよう。普通の長篇の3作分ほどの長さがあるにもかかわらず、読んでも読んでも主人公はコンサートにたどり着けない。ほかのカズオ・イシグロ作品とはずいぶんカラーが異なるが、これほど見事な(そしてイジワルでおかしい)悪夢の言語化もない。

 カズオ・イシグロはかつてミュージシャンを目指していた頃もあったというが、「充たされざる者」でわずかに描かれるクラシック音楽の世界もなかなか興味深い。たとえば、ピアノ曲の作品名。「垂直性」「石綿と繊維」「ガラスの情熱」といった題の架空名曲が登場する。「垂直性」なんて、いかにも20世後半にありそう。「石綿と繊維」と来たら、もうタイトルだけで笑えてしまう。だって、「石綿と繊維」ですよ。よく、こんな曲名を思いつくものだと感心するばかり。

 さらにこの小説の主人公は、「一流のピアニストがレパートリーにすべき現代の作曲家」として、マレリー、ヤマナカ、カザンの3人がいる、と述べる。これも架空の作曲家名なのだが、これがまたいかにもな感じで楽しい。名前からすると、きっとマレリーはヨーロッパの前衛の流れを組む作曲家、ヤマナカは非西洋的な語法を開拓した現代日本の作曲家、カザンは旧ソ連のどこかの出身なんだろう、と想像できる。

 読者をイライラさせるようなじれったさと底意地の悪いユーモアが合体した傑作とでもいうべきか。

天才を自負するイギリスを代表する作曲家が登場 イアン・マキューアン『アムステルダム』

 もう一冊、音楽家小説の傑作を挙げるとすれば、同じくイギリス人作家イアン・マキューアンの『アムステルダム』も味わい深い。奔放で魅力的だった女性が、退行性の病気がもとで早世し、その葬儀に彼女の若き日の元恋人たち3人が集まる。3人とも社会的に地位の高い名のある人物ばかりなのだが、そのひとりがイギリスを代表する作曲家という設定になっている。どれくらいすごい人かといえば、西暦2000年を記念する交響曲を国から委嘱されるほどの人物(小説の刊行は1998年)。現代作曲家ではあるが、調性と機能和声に基づく明快な作風を特徴としている(なにしろ国から交響曲を委嘱されるくらいだ)。

 これだけの作曲家なので無理もないことだが、才能には自信を持っていて、自らをヴォーン・ウィリアムズの後継者と位置づけ、「誇張のないところ自分は……天才ではないか」とうぬぼれる(ここは読みながら笑うところだ)。

 それほどの自負を抱きつつも、ある場面で、ふとこんなふうに自問する。
「自分は若い世代の批評家がいうような飼い馴らされた才能、グレツキをインテリ向けにしたような作曲家なのだろうか?」
 軽くグレツキをあてこすっているような一言だが、うっかり自分を正しく認識してしまったような居心地の悪さがなんともいえない名場面である。

 「アムステルダム」には小説としてのおもしろさに加えて、小説の形を借りた音楽論のような趣もある。

 

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