追悼ヤノシュ・オレイニチャク~巨匠ピアニストが信じたショパン音楽の可能性
ポーランドの名ピアニスト、ヤノシュ・オレイニチャクさんが2024年10月20日に急逝されました。72歳でした。
ポーランド本国はもちろん、世界中で尊敬されるピアニストであり、ショパン国際ピアノコンクールでは長年審査員を務めました。また、ロマン・ポランスキー監督映画『戦場のピアニスト』のサウンドトラックと手の演技を担当したことで、音楽ファン以外にもその名が知られていました。
オレイニチャクさんを「自分にとって特別な音楽家」であると語る飯田有抄さんが、30年以上にわたって親交を結んだ文筆家/文化芸術プロデューサーの浦久俊彦さんのインタビューを交えながら、故人の芸術を偲びます。
1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...
ポーランドの巨匠ヤノシュ・オレイニチャクの急逝
だれにも「自分にとって特別な音楽家」という存在があるだろう。筆者にとっては、ポーランドの巨匠ヤノシュ・オレイニチャク氏はそうした人物だった。
彼のピアノ演奏を初めて目の当たりにしたのは2018年11月。そう、「聴いた」というより「目の当たりにした」と表現せざるを得ない、私にとっては“事件”のような出来事だった。
代官山ヒルサイドテラスというサロン的な小スペースで、彼はあらかじめ曲目を明かさぬまま自由に次々とショパンを披露した。
理想のショパンの演奏の一つに出会ってしまった! これから先の人生で、またとあるかどうか、わからない。絶妙なルバートのきいたフレーズから、フワリと香るようなあの響きは、なんだろう。表現としての『暴力的なるもの』の、あの破滅的な美しさとは、なんだろう。一音たりとも当たり前でなく、驚きがあり、同時に説得力があり、腑に落ちる。
ポロネーズ、マズルカ、ノクターン、ワルツ……すべてに陰影と、悲しみと、軽やかさと、官能と、えぐみと、美しいノイズとに満ちていた
当時のSNSにこう記した。ポロネーズ イ長調《軍隊》op.40では、低音弦を深く打ち鳴らすその響きはショッキングなまでに力強く、ショパンの音楽に大砲の音を聴いた気がした。祖国ポーランドの革命に居合わせることのできなかったショパンが、心から血をドロドロに流しながら、彼の耳の内で轟いた大砲の音を聴いた思いだった。
その翌日のフィリアホールのコンサートにも急遽駆けつけた。以来、あれほどまでに苛烈で、悲しく、情念に満ちたショパンの演奏に出会えていない。
ショパン:ポロネーズ イ長調 op.40-1《軍隊》
ショパン:夜想曲 ハ短調 op.48-1
2024年11月16日、福島でふたたび耳にできるはずだった。しかしそれが叶わぬことになってしまった。予定されていた公演は、文化芸術プロデューサーの浦久俊彦氏が代表理事を務める一般財団法人欧州日本藝術財団の招聘によるもので、私は取材記事を書くことになっていた。それが、10月21日に浦久さんより衝撃の知らせを受け、あまりのショックにしばらく信じることができなかった。
聞けばその21日、オレイニチャクは日本大使館を訪れ、来る日本での公演に向けての準備を進める予定だったという。まさかその前日に心臓発作で急逝されてしまうとは……。
シャイな孤高のピアニスト
ヤノシュ・オレイニチャクは1988年にワルシャワ放送管弦楽団のソリストとして初来日し、NHKが1989年に制作した番組「NHKスペシャル 魂のショパン」にも出演している。
若かりし日はその容貌がショパンに似ていたこともあり、1991年のフランス=ドイツ映画『La note bleue』(1991年)でショパン役を演じ俳優としても活躍。2002年のアカデミー賞受賞作品『戦場のピアニスト』では全編にわたる演奏と、手の演技を担当した。
アンジェイ・ズラウスキー監督映画『La note bleue』(邦題:ソフィー・マルソーの愛人日記)でショパンを演じるオレイニチャクさん
映画『戦場のピアニスト』サウンドトラックより、オレイニチャクさんの演奏によるショパン:バラード第1番
ショパン国際ピアノコンクールおよびショパン国際ピリオド楽器コンクールの審査員としても知られる。日本では欧州日本藝術財団の招聘で、2017年、2018年、2021年と来日ツアーを行なってきた。
第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール 記念コンサート
「もっと大きなマネジメント会社と手を組んで、大々的にツアーをやるべきではないかと言うたびに『それはしたくない』と言うんです。彼はとてもシャイで、頼まれごとを断れない優しい人で、そして孤独でした。
最近でこそ祖国ポーランドでは大学で後進の指導にもあたり、ショパン国際コンクールの審査員を務め、いつも人に囲まれていましたが、それまでは外国での活動も多く、孤高のピアニストという印象でした。日本では基本的には僕と2人で過ごす時間も長かった。そんな時間を彼も必要としていたのでしょうか、ポーランドのマネージャーのシルヴィアさんによれば、『日本から帰ってくるとヤノシュは元気になっている』とのことでした」(浦久さん)
浦久さんは1980年代の終わりにパリでプロデュース業をしていたころ、パリでも活動を展開していたオレイニチャクと出会った。コンサート出演を打診したのが始まりだったが、以来2人はビジネスパートナーとしてだけでなく、気の合う友人として仲を深め、音楽について、芸術について、ショパンについて語り合ってきた。
帰国後、浦久さんが日本で主催するコンサートでも、2人はステージ上でのクロストークを行ない、音楽についての思索を深めた。
「ショパンを演奏する時に、ポーランド人になってはいけない」
「ヤノシュはよく『ショパンの音楽の真髄は、やはりポーランド人でなければ理解や表現ができないと思いますか?』『ショパンらしさとは何ですか?』といった質問を頻繁に受けていました。それについて答える時、彼が引き合いに出していたのは、自身が教えを受けていたアルトゥール・ルービンシュタインの言葉でした。
ご存知のとおりルービンシュタインもポーランドの大ピアニストですね。ある時、アルベニスを演奏していたら、師から『スペイン人になっちゃいけない』と言われたそうです。つまりヤノシュは『ショパンを弾くときにも、ポーランド人になろうとしてはいけない』と言うわけです。音楽家は祖国・血・民族といったものに寄りかからず、ピアニストは常にニュートラルでいなさい、ということをルービンシュタインに教えられたと言うんです。
ショパンの魅力とは、ポーランド人だけが理解できるものでもなければ、ポーランド人だけが表現できるものでもない。そうでなければ、彼の音楽がこれほど広く愛されることはなかったはず。ポーランドということに囚われ続けている限りは、ショパンの本当の偉大さ見えてこないだろう、と彼はよく言っていましたね。
とはいえポーランド語話者として共有できる部分、ショパンを“血”で理解できる部分というのは、ヤノシュにも少なからずあったようです。だからこそ同時に、ショパンを演奏するときに『ポーランド人になってはいけない』という戒めをどこかで強く意識している、と話していました。ポーランド人であるという誇りを持ちながらも、ポーランド人であることに甘んじてはいけない——彼とはいろいろ話しましたが、とても印象に残る言葉でした。ある種の引き裂かれた自己を引き受けていたのかもしれません」(浦久さん)
ショパン自身も、ポーランド人の母とフランス人の父のもとに生まれ、母方の祖国には一生戻れぬまま、フランスで生きる道を選んだ。誇り高きポーランド人であるとともにポーランド人であり続けられないという、という二重の自己、引き裂かれた自己を生き続け、そのスタンスの中でこそ、ショパンの音楽は唯一無二の成熟を遂げたのだ。
私たちは、オレイニチャクの激しくも美しいショパンを聴いて、これぞ「ショパンの真髄」と括り、「ポーランドの魂」と語りたくなるかもしれない。だが、優れた音楽芸術こそは、そうしたステレオタイプなものの捉え方、イデオロギー的な「オーセンティシティ」の枠組みに揺さぶりをかけ、超克する。そして「世界の共通語」といったような、生ぬるく耳あたりの良い言葉に落とし込めるような安直さも持たない。
オレイニチャクの芸術は、ショパンの音楽が放つ「特殊性」を鋭敏に捉え、鮮烈に届け、痛みを伴いながらその先へと突き抜け、「普遍性」へと私たちへと導いてくれるのだ。人が人として抱く悲しみや、憧れや、憤りや、愛情、他者を受け入れがたいと思いながらも、それでもなお他者を受け入れ分かり合うことを諦めなくないという願い——オレイニチャクの音楽を聴いて私たちは、そうした切実な感情に、揺さぶられるのだ。
2018年の秋、オレイニチャクの演奏に対して「絶妙なルバートのきいたフレーズから、フワリと香るようなあの響きは、なんだろう。表現としての『暴力的なるもの』の、あの破滅的な美しさとは、なんだろう」という、私の心に浮かんだ問い。浦久さんに伝えてもらったオレイニチャクの言葉から、それらに対する答えを、ようやく得られたような気がした。
ショパンを愛する日本〜相反する心を持つ国
「ポーランド人だからできるショパン」「これぞ本物のショパン」といった排他的な捉え方をよしとせず、ショパンの音楽の可能性の大きさを信じ続けたオレイニチャク。
私が2021年のショパン国際ピアノコンクール取材の際に伺ったインタビューでも、コンテスタントたちの幅広い解釈を歓迎し、「彼らの演奏が、まったくそれぞれに違った個性をもっていることが嬉しく、とても素晴らしいことです。それこそがショパンです」と話していた。1か月におよぶ全審査を終えてもなお、「あと2週間コンクールが続けばいいのに!」と笑顔で語っていた。
「飯田有抄のショパコン日記42〜審査員ヤノシュ・オレイニチャクさんインタビュー」より 協力:全日本ピアノ指導者教会(ピティナ)
このインタビューでも「ショパンにとって、もう一つの祖国が日本」と語るほど、日本におけるショパン人気をよく知っていた。
「彼は、ショパンの音楽が日本人の琴線に触れる理由を追求したいとも言っていましたね。ショパンの音楽を語る際に、よく言及されるポーランド語に『ŻAL (ジャル)』という言葉あります。一言では訳しきれない意味の言葉ですが、ヤノシュは『日本人だったらわかるはずだ』と語っていました。
これにもやはり、引き裂かれた二面性、相反する微妙なニュアンス、といった意味合いがあると思います。今の世の中、何事も単純化して合理化して理解しようとしがちですが、どうしても単純化できない人間の感情ってあるじゃないですか。笑いながら心で泣いたり、悲しみの中に美しさを見出すとか。日本の文化、たとえば枯山水であるとか、白と黒とその間の無限の階調を描く水墨画であるとか、そうした文化をもつ日本人には、『ŻAL (ジャル)』の心がわかるはずだ、と考えていたようです」
2021年の来日ツアー時には、日本を代表する録音エンジニアが「音によるドキュメンタリーを残したい」と希望し、公演を収録し続けたという。
「今回の来日時に、ヤノシュ自身にそれらを聴いてもらおうと思っていたのですが、それが叶わず残念です」(浦久さん)
そうした貴重な記録にも、私たちの心の中にも、オレイニチャクの芸術はいつまでも生き続けていくだろう。
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