ジョン・ケージはなぜ《4分33秒》を創ったのか——クラシックのバックグラウンドからの変遷をたどる
《4分33秒》など、前衛的なイメージをもたれがちなジョン・ケージですが、少年時代には「エリーゼのために」を好んで弾き、グリーグに夢中になり、その後はパリで名ピアニストのレッスンを受けていました。そこから、どのようにして“ケージらしさ”が生まれていったのでしょうか。
さまざまな作品を聴きながら、たどっていきましょう。
国際基督教大学(哲学)、バークリー音楽大学(作曲)を卒業。 イベントプロデュースや音楽制作を経て、翻訳家として『ナディア・ブーランジェ』(彩流社)『作曲家の告白』(ア...
40歳の円熟期で発表した《4分33秒》
ジョン・ケージの作品、《4分33秒》は非常に有名な作品です。
まず、色々なアーティストに、よく「ネタ」的にカバーされています。2019年には、Mute Recordsからデペッシュ・モード、ニュー・オーダー、ライバッハなどのアーティストによってボックスセットがリリースされました。また、2010年には、Youtube上でケージ・アゲンスト・ザ・マシーンと言うキャンペーンが行なわれ、Cold CutやImogen Heap、Orbital、UNKLEなどのアーティストが、沈黙し続ける楽曲を「演奏」し、クリスマス時期のチャートのランキング進出を目指し、話題になりました。
Cage Against The Machineの《4分33秒》
実はこの曲の楽譜には、さまざまなバージョンがあります。基本的に3楽章ありますが、この演奏者たちがそれを意識しているのかは、疑問が残ります。ただ、解釈の正しさはともかくとして、現代音楽の作品でこれほど親しまれている作品は他にないのも事実なのです。
まず指摘しておきたいのですが、《4分33秒》は1発もののギャグではありません。1912年生まれのケージが、1952年に作った作品、つまり40歳頃の作品です。現代音楽のみならず、美術や宗教、建築、映像、文学など、幅広い関心を持ちながら作曲し、一定の評価を得ていた中で、《4分33秒》を生み出し、さらにその後も創作を深めていった作曲家の作品です。
まず、ここで1曲、前衛的には聴こえないピアノ曲をチェックしてみてください。これを聴くと、センセーショナルな話題性を提供して有名になりたいがために《4分33秒》を作るようなタイプではなく、誠実に創作活動を行なうタイプのアーティストであるのがわかります。
In a Landscape (1948年)
「エリーゼのために」を好む少年から、シェーンベルクの弟子へ
ケージは意外とちゃんとしたクラシック音楽のバックグラウンドをもっていたことは強調しておかねばなりません。幼少期のケージは、一般の子どもと同じように、ピアノを習っていました。例えば、ベートーヴェンの《エリーゼのために》、さらには、最近再評価されているヴィクター・ハーバートの作品などを好んで弾いていたようです。
少し成長すると、グリーグの作品に夢中になったようです。アメリカの大学を中退し、ヨーロッパ滞在中は、主に建築を学んでもいるのですが、実は、日本の伝説的なピアニスト、安川加壽子や原智恵子を育てた、パリ国立高等音楽院の有名なピアノの先生、ラザール・レヴィのレッスンを受けたりもしています。
徐々に近代音楽に興味を持つようになり、アメリカ帰国後には出会いに恵まれました。アメリカ実験音楽において重要な存在であるヘンリー・カウエルや、12音楽の創始者として知られ、クラシック音楽の古典の厳格な指導者でもあったアルノルト・シェーンベルクに師事するようになります。シェーンベルクは、クラシック音楽の作曲の素養を深める上で、これ以上ないほどの師匠です。技法を開発し、音楽史自体を更新するシェーンベルクに、ケージは大きな影響を受けました。しかし、同時に、ケージは西洋音楽の作曲に必要不可欠で、非常に重要である和声のセンスがないと指摘されてしまいました。
テクノロジーへの目覚めとフィッシンガーとの出会い
しかし、ここから立ち直るのがケージのすごいところで、おそらく師匠にはできなくて自分のできること、そしてそれが音楽史に見て理にかなっていることを目指したのでしょう。シェーンベルクに師事している間、ケージはテクノロジーと音楽に関する興味を膨らませます。実験映画で有名なオスカー・フィッシンガーの、最新鋭の設備が整ったスタジオで(短期間ですが)働くことになります。
フィッシンガーからは、音には精神が内在することを教わります。そして、クラシック音楽の中ではメロディや和声に比べてあまり考察されない「音色」と、その精神性に対する興味を持つことになります。音自体の可能性に目を開くことになり、当時はまだクラシックの世界では未開拓だった打楽器を探求することになります。
ケージ自身は多くを語らないのですが、発明家であるケージの父は、ケージにさまざまな仕事をさせていたようで、テクノロジーに関する関心を小さいときから植えつけたようです。打楽器の作曲は、ダンサーとのコラボレートをする機会を増やし、クラシックの中には見られないリズムや曲の構成を考えるきっかけを作っていきます。こうして作られた初期の打楽器作品には、音色に対する創意が溢れています。
四重奏曲 (1936年)
このような経緯から、ピアノの弦をメタル、ゴム、木材、プラスチックなどさまざまな素材でミュートして、打楽器のような音を目指したプリペアド・ピアノの発明に至ります。
ピアノの新たな可能性の探求
また同時にクラシックの作曲家であるから、ピアノから離れずに作曲していきました。西洋音楽の楽器の中心的存在であるピアノの新たな使用法に対する関心、という意味では、1942年には、鍵盤を弾かない楽曲《18回目の春を迎えた素晴らしい未亡人》なども作曲しています。ピアノの蓋は閉められ、楽器の様々な部分を叩いて歌の伴奏をします。プリペアド・ピアノやこの楽曲のように、ピアノの今までにない使用法を考えていました。
初演時にもピアノが使われた《4分33秒》は、ピアノを使う新たなアプローチの開拓の歴史、と考えることも可能かもしれません。
キャシー・バーベリアンの歌う《18回目の春を迎えた素晴らしい未亡人》(1942年)
《4分33秒》に至る背景―《黙祷》という作品の構想、無響室の体験、偶然性の技法、ラウシェンバーグの白い絵画
よりコンセプチュアルな側面から《4分33秒》の経緯を捉えることもできます。ケージは、《4分33秒》をそのタイトルではなく「沈黙の作品」と呼ぶことが多かったのですが、1948年に行なわれた「作曲家の告白」という講演で、沈黙の作品《Silent Prayer(黙祷)》の構想を最初に語っています。
それは当時勃興しつつあったBGM配信会社のミューザック社に無音の楽曲を売り、放送させる、というものでした。そしてその長さは、当時の主要な音楽メディアであったSPレコードの片面の標準的な長さである4分30秒だった、というのです。結局実現はしませんでしたが、公共スペースで使用される複製芸術に対する、皮肉や冗談のような意味合いが込められていたこと、またケージが沈黙のコンセプトを持ち続けていたことがわかります。
1948年から1952年にかけて、中国の占星術である易経を使用し、前衛的な作曲技法としての偶然性を採用、何も聴こえないと思われた無響室での経験(自分の体内の音が聴こえ、完全な沈黙はないと悟り、完全な沈黙はないと悟った)を経て会場内の偶然的なアンビエンスノイズを聴取するという方向性へ関心がシフトしたこと、禅に対する興味の本格化、などが重なりました。しかし何も音のない作品を発表するのにはだいぶ躊躇してはいたようです。いくつかの契機があり、例えばブラックマウンテンカレッジで出会った美術家、ロバート・ラウシェンバーグの真っ白な絵画として知られる作品《ホワイト・ペインティングス》を見たこと、さらにはピアニストのデヴィッド・チュードアに後押しされたこともあって、《4分33秒》が初演されたと考えられています。
Music of Changes (1951年)
《4分33秒》の1年前の作品であり、作曲技法に偶然性を用いている
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