読みもの
2024.11.29
【Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画】ピーター・バラカンの新・音楽日記 30

九月に開催された4回目の音楽映画祭はどれも傑作揃いであったが中でもバーバラ・デインを扱ったドキュメンタリーは秀逸だった

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。

Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。

●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2024年11月号に掲載されたものです。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

イラスト:酒井恵理

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驚くほど本格的にジャズやブルーズを歌った現在97歳のバーバラ

先月開催された4回目の音楽映画祭「Peter Barakan’s Music Film Festival」で全21作の映画が上映され、選んだ本人が言うのははばかられますが、かなりの力作が揃ったと思っています。

とはいえ、その映画で描かれている多くのミュージシャンは日本ではほとんど知られていないので広報活動はけっこう大変なのです。とくに日本初上映の作品ではガーランド・ジェフリーズやボビー・チャールズといった、素晴らしいけれど知る人ぞ知るミュージシャンは1970年代から好んで聞いていたのですが、彼らに関するドキュメンタリーが制作されること自体はやや意外でした。でも、その内容は実に面白く、彼らの音楽のみならず、アメリカ社会についても大いに参考になりました。

もう一人、バーバラ・デインに関しては、ぼくは2018年に初めて知りました。「Hot Jazz, Cool Blues& Hard-Hitting Songs」という2枚組のコンピレイションCDがきっかけでした。そのアルバムは彼女が90歳になったことを記念して編集されたもので、1950年代終盤から2010年代の録音まで含まれています。アルバム・タイトルの通り、ジャズやブルーズが多いですが、白人の彼女はちょっと驚くほど本格的にそんな歌を聞かせます。

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1927年生まれ、現在97歳のバーバラ・デインに関する映画も、昨年制作されました。「The 9 Lives Of Barbara Dane」というタイトルです。猫に9つの命があるという英語の格言があります。もちろん比喩的な表現ですが、猫という生き物はそう簡単には滅びないことを意味しています。

映画を見ればよく分かりますが、バーバラ・デインも猫に負けずタフな女性です。邦題を「七転八起の歌手バーバラ・デイン」としました。

なぜそれだけ試練が多かったかというと、バーバラは若い時から社会に蔓延する不正から目を背けることができず、自分の歌を苦しむ人々のサポートのために用いた結果、商業的な成功を後回しにしてしまったからでもあります。

人種差別そして労働者の権利のために活動

デトロイト生まれの彼女は大恐慌の最中に育ちました。バーバラは南部から移住した父親が経営するドラッグ・ストアを子どものころから手伝っていて、10歳のある夏の暑い日、飲み物のカウンターで彼女が働いている時に外で道路工事をしていたアフリカン・アメリカンの労働者の一人が店に入ってきてコーラを頼みました。バーバラが瓶からグラスに注いでいるところ、父がうしろの調剤室から慌ててやってきました。バーバラを激しく叱り、労働者を追い出したのです。

30年代のデトロイトでは黒人がいると白人のお客さんが来なくなると心配していたわけですが、10歳のバーバラにとってお父さんの屈辱的な行動の不公平さがずっと心に残ったそうで、人種差別に反対する活動の原点はここにあったわけです。

20歳になった1947年にプラハで開催された第1回世界青年学生祭典に参加しました。そうすると世界中から集まった若い人たちが自分と同じような志を持っていることに気づき、社会的な訴えを持った歌を歌い始めました。終戦直後のアメリカでは虐げられていた労働者を守るために組合を作る運動が活発でしたが、資本主義制度ではそれを阻む力も大きく、労働者を支持する立場のフォーク・シンガーたちは主に共産主義者でした。しばらく共産党の党員になっていたバーバラはFBIに睨まれることもあり、映画の冒頭シーンで彼女は苦笑いを浮かべながら分厚い自分のFBIのファイルのページをめくっています。

党員仲間がカンパして買ってくれたギターを独学で弾き始めたのですが、ヴォランティア活動だけでは生活できないのでプロとしてやって行こうと、エイジェントに紹介されました。しかし、会いに行ったそのエイジェントは開口一番「コートを脱いで後ろ姿を見せなさい」。ここに来たことが失敗だとすぐに気づいたバーバラはさっさと出てしまいました。

バーバラ・デイン(1960年の写真)

圧力に一歩もひるまなかった素晴らしい歌手

それでも1957年から定期的にアルバムを、主にインディの小さいレコード会社から出していて、サンフランシスコやロサンジェレスのクラブでコンスタントに一流のブルーズ・シンガーと共に出演していたのです。1959年に全国放送のテレビ番組で共演したルイ・アームストロングは彼女のことを絶賛し、彼のヨーロッパ・ツアーのゲストにも招かれましたが、親善大使的なイメージのあるルイ・アームストロングのツアーに、社会や政治について歯に衣を着せぬ発言をする金髪の女性が同行することに対して、そのツアーのスポンサーであるアメリカ国務省はどうやら懸念を示したようで、バーバラは結局不参加となりました。

しかし、こんなことがあってもバーバラは一切ひるまず、必ず次の一歩を踏み出します。彼女の人生の中で大きな転換点の一つは1966年にアメリカ政府の制裁を無視してキューバを訪れたことです。そこで世界中から平和を望むプロテスト・ソングを歌う人たちと出会い、そのムーヴメントの一環として3人目の夫と2人で「Paredon」というレコード会社を興して、中南米やヴェトナムなどの音楽を発表しました。その貴重な文化遺産を守るために、後にパレドンの音源を2018年のコンピレイションを発表したスミソニアン・フォークウェイズに寄贈したのです。

今年の音楽映画祭は終了しましたが、この映画はとても文化的な価値もあるし、バーバラ・デインは素晴らしい歌手でもあるので、今後も上映会を続けたいと思っています。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

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