「孤島」と称された創造性 作曲家クシシュトフ・ペンデレツキ
去る3月29日、前衛音楽界を代表する作曲家、クシシュトフ・ペンデレツキ(1933年11月23日〜2020年3月29日)が亡くなりました。前衛的な響きを追求しつつも、唯一無二の作風を確立させたペンデレツキ。作品を振り返りつつ、その功績をご紹介します。
国際基督教大学(哲学)、バークリー音楽大学(作曲)を卒業。 イベントプロデュースや音楽制作を経て、翻訳家として『ナディア・ブーランジェ』(彩流社)『作曲家の告白』(ア...
この3月29日、ポーランド、そして戦後の前衛音楽界を代表する作曲家、クシシュトフ・ペンデレツキが、長い闘病生活のあと、首都のクラクフで86歳でこの世を去りました。生涯にわたって作曲し、150以上のオーケストラ作品や器楽コンチェルト、4つのオペラ、8つの交響曲を残しました。
彼は、数々の重要な音楽フェスティヴァルの音楽監督をつとめる有能な妻エルジュビェタ・ペンデレッカとともに、18世紀の荘園(領地が所有し経営する敷地の単位)に由来する、広大な植物園を所有し、1800種類の樹木や灌木の栽培で知られていました。コンサートホール、レコーディングスタジオ、音楽資料館を備えたクシシュトフ・ペンデレツキ・ヨーロッパ音楽センターが隣接し、創作環境として群を抜いていたようです。しかしながら昨年、その植物園は、病が進行していた老齢の彼の手に負えず、後進の育成のため国に譲渡したとのニュースが報道されていました。
一般的に言って、優れた芸術家は多層性があります。ペンデレツキもまた、多層的な背景を持つ作曲家で、彼の出自――デンビツァというナチスドイツによって悲劇的な運命を辿ったユダヤ系の多い村で育ち、アルメニア人の母にアルメニア教会に連れて行かれたこと、そして創作の根源にあるカトリシズム――、またポーランドの抱えていた政治的な文脈――スターリン主義の崩壊、社会主義国家の中で民主主義運動「連帯」からの刺激、さらには冷戦に翻弄された歴史――があり、それが彼個人の音楽観に影響したことは踏まえなければなりません。
彼は若い頃からすぐに名声を手にします。そしてそれは1956年のスターリン主義崩壊によって文化的な検閲から解放され、芸術家が自由を謳歌した時代背景にも助けられました。「すべての伝統からサウンドを解放する」ために作られた作品《広島の犠牲者に捧げる哀歌》(1960)と矢継ぎ早に作曲された《アナクラシス》(1959〜60)、《ポリモルフィア》(1961)は、まだ20代半ばで作られた、彼の代表作となりました。
ここで用いられる技法トーン・クラスターは、アメリカの作曲家ヘンリー・カウエル(1897〜1965)によって最初に考案されたことで知られています。カウエルのそれが基本的には鍵盤楽器上で、多数の鍵盤を肘などを使って一度に弾くこととされるのに対し(つまり音程で言えば2度が中心に構成となる和音)、ペンデレツキのものは、弦楽器による微分音(半音の半分の音程)のクラスター(密集)であり、さらに可能な限り高い音程を弾くようにと楽譜の指示があり、秒数の指定された中で、テールピース(弦楽器の駒の下にある木の部品)で弓を弾き、ブリッジ(駒)の後ろを使った弦の特殊技法、速度の違うトレモロをぶつけたりするなどして、より強烈な響きを作り出しました。
響きとしては、最前衛にいる伝統の破壊者として知られますが、同時に古典的な形式を守るタイプの作曲家でもあります。例えば、《広島の犠牲者に捧げる哀歌》《ポリモルフィア》は共にABA’の形式があり、後者に至っては本来の前衛作曲家ならばもっとも嫌うはずの、典型的なハ長調の和音(ドミソのこと)が最後に使用されています。
《広島の犠牲者の哀歌》
(元々のタイトルはジョン・ケージを意識してか、初演時の演奏時間の《8’37”》でした。5分12秒〜、9分42秒〜にて形式的な反復があり、ABA’の形式性を強調)
《ポリモルフィア》(11分37秒〜 ハ長調の和音での終止)
このように考えてみると、今多くのメディアの追悼記事では映画音楽の世界で称賛された作曲家であると報道されていますが、そこには違和感を感じざるを得ません。例えば、『シャイニング』(1980)でジャック・ニコルソンが演じる精神を蝕まれた男、ジャック・トランスが死に至るシークエンスに合わせて、《デ・ナトゥーラ・ソノリス》第2番(1971)が編集され使用されたことに対して、不機嫌となった事実があります。つまり彼は、あくまでもコンサートホールの観客に向けて作品を書いた作曲家であり、映画監督から好かれてはいても、映画音楽は彼の主戦場ではなかったからです。
映画『The Shining』 より
ペンデレツキは、楽器の演奏法の開拓や、珍しい楽器の使用など、果敢にさまざまなことにチャレンジしましたが、1971年には、なんとフリージャズで知られるトランペット奏者のドン・チェリーと、「The New Eternal Rhythm Orchestra」を組み録音を残しています。集団即興や図形楽譜、その状況での指揮といった音楽的要素によって、現代音楽とフリージャズが接近した歴史的な記録となっています。またペンデレツキがこのあと指揮者として活動するきっかけになった出来事でもありました。
《Actions for Free Jazz Orchestra》(1971)
(Kenny WheelerやPeter Brotzman、Hann Bennink、フリージャズの名手も参加)
この作曲家の作品の中でもっとも著名で、よく演奏されているものは、ドイツのミュンスターの大聖堂で初演された70分のオラトリオ《ルカ受難曲》(1966)でしょう。曰く、「これは最初から聴衆を惹きつける作品」だったようです。
少しずつ前衛音楽から古いオラトリオ音楽などに関心を持ち始めた時期に書かれ、16世紀のポリフォニー音楽に遡るスターバト・マーテルなども含まれるこの受難曲には、実験的なテクスチャーと、バロック的な形式、さらには伝統的な和声と旋律を使用するなどし、全体的なバランスが取られています。マイクロポリフォニーと称されるようなオルガンや金管楽器でトーン・クラスターを多用し、またコーラスも叫んだり吠えたりさえするのですが、現代音楽としては少し過去の形式である12音階主義を用いた2列の音列を用い、そのうち1列はB-A-C-H(バッハのスペルの音程で構成される音列)を引用。さらには最後の和音はホ長調の三和音で、《ポリモルフィア》のような突然の和音とは異なり、和声的な進行感を与えています。
《ルカ受難曲》
(1:09:50〜部分に、さらに一番最後の部分でも三和音が使用)
1970年代半ばになると、ペンデレツキのスタイルは変化し始めたと評されます。彼は、前衛音楽——つまりシュトックハウゼン、ノーノ、ブーレーズ、ケージらの音楽世界は、社会主義リアリズムに縛られていた当時の自分にとって解放だったけれども、結局のところ建設的というよりも破壊的だったと述懐します。そして今は過去の自分のスタイルを踏襲をすることに興味はなく、「自分は伝統への回帰によって、形式主義の前衛的な罠から救われたのだ」と結論づけ、いわゆる現代音楽とはほど遠い、ベルリオーズさえ感じさせる、ロマン主義的な方向性を深めていきました。しかし、自身にとってはそれが作曲したい作風であり、それでも多くの聴衆に注目され続け、愛されていたことは間違いないようです。
ここで彼の70年代以降の音楽を評する余裕もスペースもありません。彼の前衛時代の作品は、半世紀にも渡って(映画界でもポップミュージック界でも)多くの作曲家を魅了し、触発してきました。当時の最前衛を突破した作品群は、誰も到達し得なかった特異点であり、演奏に大きく左右されるはずの書法とはいえ、その演奏はいつも強烈な力を孕んでいます。ポーランドの音楽評論家アンドレイ・クロペキは、前衛時代の創造性について、「現代音楽の孤島」のようだと称しました。ペンデレツキはそれに対し、「自分のスタイルをチューニングしたのだ」と答えました。
それにしても、音楽史に燦然と輝く過去の自分の業績に対して、こんな余裕のある発言をする作曲家は世界にどれだけいるでしょうか? 彼の全盛期の作品は、未だに創造の神秘的な魅力に包まれているのかもしれません。
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