『プレゼント・ラフター』のイギリス的笑いとは?〜タイトルはシェイクスピアに由来
俳優や脚本家、音楽家など、多様な活躍を見せたイギリスの才人、ノエル・カワードが仕込んだ笑いとは? 3月11日より全国で順次公開予定の松竹ブロードウェイシネマ『プレゼント・ラフター』におけるイギリスらしい皮肉な笑いについて、イギリス文化研究者の齊藤貴子さんが解説! シェイクスピアの『十二夜』からの引用でもあるタイトルの意味にも迫ります。
上智大学大学院文学研究科講師。早稲田大学および同大学エクステンションセンター講師。専門領域は近代イギリスの詩と絵画。著作にシェイクスピアのソネット(十四行詩)を取り上...
80年間愛されてきた名作喜劇
サックス・ブルーの壁一面を、本とアートが覆い尽くす部屋。真ん中に置かれた長いカウチソファーの向こうには、木目のグランドピアノがオブジェのように鎮座する。
わびさびの閑寂な日本的美意識とは対極の、さまざまな色と物で天井までびっしりと埋め尽くされた豪華なアールデコ様式のロンドンのフラット(=高級アパートメント)で、1から10まで事のすべてが進行してゆくのが『プレゼント・ラフター』。
演技も執筆も作曲も何でもござれの、20世紀英国のマルチな才人ノエル・カワード作の喜劇で、1942年の初演(1939年の予定だったが、第二次世界大戦勃発によりリハーサル段階で一時中断)以来、約80年の長きにわたり、繰り返しリバイバル上演されてきた名作。
もう少し下世話な説明を付け加えれば、ひどく若いうちはともかく、数十年人間やっている身には思いあたるふしがいろいろあって、クスクス笑えること間違いなしの大人向けのラブコメディだ。
松竹ブロードウェイシネマ『プレゼント・ラフター』予告編
主人公ギャリーは大人になれない困ったさん
主人公ギャリーは、中年真っ盛りの人気俳優。他人様に見られるのが商売とはいえ、いつでもどこでも病的なまでにファッションにこだわり、シルクのドレッシング・ガウンが部屋着の定番。くわえて、タートルネックやアスコットタイもお気に入り。
これらはすべて、ダンディで鳴らした原作者カワード自身の趣味の反映にほかならない。すでに18着(!)もガウンを持っているという設定なのに、元妻(もはや男女の仲ではないが、ビジネスパートナーとして腐れ縁的関係)が土産に持参した新しい白のガウンに狂喜乱舞するシーンなど、作者の実体験かと勘繰りたくなる。
ギャリーを演じるトニー賞俳優ケヴィン・クラインの芸達者ぶりともあいまって、ここは間違いなく芝居序盤の見せ場のひとつ。たとえていうなら、郷ひろみのジャケットプレイ(ご存じですよね?)を彷彿とさせる華麗な身のこなしで、ギャリーはいったん空に放ったガウンに両腕もろとも一気に袖を通し、子どものようにキャッキャッしながら得意げに羽織るのである。その姿には一体アンタいくつよ……と、腐れ縁の女ならずとも突っ込みたくなること請け合いだ。
©Sara Krulwich
そう、ギャリーはまったくもって大人げない。というか、大人になりきれていない。「いつも演技している(I’m always acting)」というセリフ通り、成熟した大人として自然に振る舞うことができず、日常的な自己劇化の果てに自己愛の塊と化してしまっている。
それでいて、鏡をのぞき込んでは櫛や手のひらで薄くなった頭髪を撫でつける仕草には確かに中年の哀愁がただよい、元妻や秘書をはじめ、周囲の者たちにかすかな憐憫を誘っては、母性本能をくすぐらずにおかない。
でも、ここでコロっと騙されたら大変。ある意味それが彼の手で、女たちからひとときの慰めを得てしまえば、後は保身と責任回避にひた走るのが自己愛の権化、ギャリーである。
実際、家に連れ込み一夜を共にした女優志望の女の子が、自身の年齢(57歳)の半分にも満たない24歳だと知ると、彼は咄嗟かつ必死に自分は40代だとサバを読む。まったく男というのは、どうしてすぐにバレる嘘をつくのか……。
イギリス詩の朗読がもたらす、皮肉で高貴な笑い
けれど、本当に呆れるのはここから。どうやら本気になってしまった彼女をなんとか煙に巻こうと、ギャリーは「僕らは別れたときのように出会ってはいない/目に見える以上のものを感じてるのに(We meet not as we parted/We feel more than all may see)」と、イギリス・ロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの詩をやにわに暗唱しはじめる。
実はこれ、人をコケにするにもほどがあるというくらい相当に皮肉で、いかにもイギリス的な、それこそ最高にスノビッシュな(上品ぶった)場面。というのも、イギリス社会において詩の素養は教養の最たるものとされ、己のそれをことさら誇示しようと、有名な詩の一節を人前でうやうやしく朗読したり暗唱したりする人間は、階級の上のほうを中心に決して少なくない。ただここだけの話、形なき何かを敢えて見せびらかしたり見せつけたりするほど、愚かで滑稽な行為がこの世にあるだろうか。
それに、これもあくまで個人の見解だが、およそイギリス・ロマン派詩人のなかでも、シェリーほど観念的な詩人はいない。良くいえば常に理想を追い求め妥協を知らず、そのため悪くいえば時に上から目線で、ところどころ自分で自分に酔ってしまっている感が否めない。そういうタイプの詩人の恋愛詩を、親子以上に年の離れた若い女性相手に滔々とそらんじ、またそうしているうちに自身もいつしか自身に酔ってしまうギャリーの姿を見るにつけ、彼はカワードがありったけの自虐を込めて創出した哀れな分身なのだと、つくづくわかる。
多芸多才かつ同性愛者として時代の先をいくノエル・カワード
——大いなるアマチュアともいうべき、多芸多才なる教養人。それこそはイギリス上流階級のあるべき姿、今も昔も変わらず求められる理想的人間像といってさしつかえない。ならば、ロンドンの決して裕福とはいえない家庭に生まれながら、それをあれよあれよという間に見事に体現してしまったカワードは、その存在自体がすでにひとつの皮肉だった。
イギリス出身。俳優・作家・脚本家・演出家、作詞・作曲、映画監督など、多岐にわたり活躍する。
同じく階級差を乗り越えての20世紀ショービズ界成功者としては、カワードに遅れること約40年、1960年代にデビューしたイングランド北西部リバプール出身の4人組、ビートルズのほうがはるかに有名ではあるだろう。ただし階級の問題のみならず、ジャンルを超えた才能の幅広さ、さらに女性よりも男性を愛し、今でいうLGBTQでもあったという点までもれなく考慮に入れたなら、20世紀イギリス社会にパラダイムシフトをもたらした真のパイオニアは、もしかすると1920年代にはすでに世に出ていたカワードだったのかもしれない。
そんな彼が自分そっくりの登場人物に、貴族みたいに気取りきって、しかも女を煙に巻くためという世にも陳腐な理由でロマン派詩人シェリーの詩を暗唱させるというのは、何もかも知り尽くしたうえでの冷笑的諷刺以外の何物でもないだろう。
タイトルはシェイクスピア『十二夜』からの引用
さらにいわせてもらえば、そもそも芝居のタイトルからして、カワードは世を拗(す)ね人を喰っているところがある。
What is love, ‘tis not hereafter,
Present mirth, hath present laughter:
恋ってなんだ? この先なんかありゃしないだろ、
今楽しけりゃ、今笑えることがあるだろ。
「プレゼント・ラフター(Present Laughter)」というのは、実はシェイクスピアの喜劇『十二夜』に出てくるフレーズで、ご覧の引用部分はフェステという道化の歌の一節。このあとも「先のことなんて知るか」と続いていくフェステの歌は、いつも「演技」しながらその場しのぎで生きているギャリーの弁と見まごうばかり。というより、常に自分で自分の首を絞め続けているギャリーは彼自身、どこからどう見ても正しく道化だ。
それだけではない。『十二夜』のフェステは道化とはいっても、登場人物の誰よりも早い段階で深く鋭く真実を見抜いては、機知に富んだ言葉でそれを紡ぐ役どころ。これも「どこにも平和なんてない(There’s no peace anywhere)」と、劇中バカな真似を繰り返しては要所要所で真実を吐露するギャリーそっくり。
フェステに限らず、シェイクスピア劇の道化は実のところ機知にあふれた厭世主義者と相場が決まっているのだが、カワードがその役割を自作の芝居でこっそりギャリーに与えているのは間違いない。
ことほどさように、カワードはさりげなくもおそろしく知的。何も考えていないようで、何もかも考え尽くしている。成功者の常なのか、(こと仕事に関しては)とにかくバランス感覚に長けている。
ベートーヴェンの《悲愴》がほのめかすギャリーの心の内
今回の『プレゼント・ラフター』においてそれを一番感じさせるのは、例の女優志望の女の子との一夜から3日後の夜という設定で、ギャリーが部屋でひとりピアノを弾く場面。
彼が弾くのは、なんとべートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番《悲愴》。それももっとも表現力が要求される第2楽章だ。
べートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》第2楽章
原作者カワードは作曲家としてもかなりのもの。もともとオペレッタ用に書き下ろした「また会いましょう(I’ll See You Again)」や「もしも愛がすべてなら(If Love Were All)」など、洒落たヒット曲がいくつもある。自分の芝居なのだから自分の曲を使えばいいものを、不思議とそうしないのは、たぶんカワードの音楽だとこの場面では軽すぎるから。
ノエル・カワード『English Gentleman』
冒頭で紹介したとおり、『プレゼント・ラフター』の物語のすべては装飾過多気味のフラットの1室で、基本的に舞台装置を変えることなく終始ドタバタと進んでいく。そんな芝居の最初の場面転換にして、ギャリーがおよそ初めて自分自身の闇らしきものと静かに向き合う夜のシーンには、やはりカワードのひたすら洒脱な哀歌よりも、ベートーヴェンの低く内省的な旋律のほうが相応しい。
むろんピアノの演奏それ自体は、演じるクライン自身の、名優の名に恥じぬ研鑽の賜物ではあるだろう。その結果、舞台上のギャリーが一音一音ゆっくりとつまびく《悲愴》の繊細なメロディは、前後のコミカルな混沌状態とは裏腹に、彼という登場人物がひとり抱え込む苦悩の深さを確かに感じさせる。
金も名声も十分ある。じゃあ、ここがゴールか? それでここから先もずっとこのままか? という、結果を出してきた人間ならではの人生の華やかな迷路。ギャリーは大人になりきれていないのではなく、どこかで完全に自分を見失ってしまってずっとそのままなのではないかと、彼のピアノの音色で観客はふと気づく。そしてそれは舞台を見ているうちに確信に変わってゆく。
そんなふうに、いつからか自分を見失って「いつも演技している」ギャリーは、果たして救われるのか。悲劇じゃないので、まず間違いなく救われるとして、一体誰が彼を救ってくれるのか——。これはもちろん途中から次第にわかって、最後にストンと腑に落ちる仕組みになっている(そうじゃなきゃ喜劇じゃない)。
ヒントは「君が僕のところに戻ってくるんじゃない……僕が君のところに戻るんだ(You’re not coming back to me…… I’m coming back to you)」という、ギャリーの最後のセリフ。大人の恋とはつまるところ、腐れ縁?
日時: 2022年3月11日(金)より全国順次限定公開
原作: ノエル・カワード
出演: ケヴィン・クライン、ケイト・バートン 、クリスティン・ニールセン、コビー・スマルダーズ、ほか
上映劇場: 東劇(東京)、なんばパークスシネマ(大阪)、ミッドランドスクエア シネマ(名古屋)ほか
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