読みもの
2024.04.19
『作曲家◎人と作品 プロコフィエフ』新刊出版記念

プロコフィエフの名曲と素顔に迫る12のエピソード

4月23日は、「ロミオとジュリエット」「ピーターと狼」などで知られるプロコフィエフの誕生日とされています。1891年に現在のウクライナに生まれ、大陸をまたにかけてピアニスト・作曲家として活躍したプロコフィエフの知られざる素顔を紹介します!

音楽之友社出版局書籍部
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出版局書籍部では、クラシック音楽を中心にプロの音楽家・指導者・研究者向けから演奏や鑑賞の初心者向けまで、音楽に関するあらゆる本の編集を行っています! 半世紀以上におよ...

ページトップの写真は1918年アメリカ時代のプロコフィエフ
Bain Collection

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才能あふれる幼少期~青年時代

幼いころから母にピアノを習い、作曲もしていたプロコフィエフ。11歳のとき、モスクワ音楽院の教授タネーエフの前で自作を披露しました。

11歳の冬に(中略)タネーエフを訪問して自分の交響曲の四手連弾編曲を見せた際、「和声が単純すぎる。ヘッヘッ」と笑われたのである。のちに彼はたびたび、この事件がきっかけで、大胆な和声に向かうことになったと回想している。 

これは彼の記憶にしっかりと刻まれるほど屈辱的な出来事だったそうです。
少年プロコフィエフは音楽のほかに、数理的なものに関心を持っていました。その傾向は、13歳で入学したペテルブルグ音楽院でも発揮されます。

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じきに13歳の少年は(2番目に若いカンカローヴィチでさえ19歳だった)、統計好きが高じて他人の和声のミスを数え、グラフをつくり、級友たちを苛立たせることになる。

音楽院在学中の17歳のとき、自分の作品での演奏会デビューが実現します。

12月18日、念願叶って作曲家としての演奏会デビューの日が来た。レフォルマツキー学校のホールでの「現代音楽の夕べ」。(中略)彼は〈おとぎ話〉、〈雪片〉、〈回想〉、〈衝動〉、〈哀願〉、〈絶望〉、〈悪魔的暗示〉を弾く。演奏は予想外の成功を収め、新聞にも批評が載った。

「4つの小品」op.4~〈悪魔的暗示〉

20代前半のときには、一途に結婚を考え、駆け落ちまでしようとしたニーナという恋人がいました。

ずっと後になってから、ニーナはプロコフィエフの思い出を自伝に綴る。
彼はうんざりするほどの香水をつけ、顔はそれほど美しくないが灰色の目が強い光をもち、非常に仕事の生産性が高い人だったと。

しかし結婚はニーナの父の反対に遭い、叶いません。失意の彼はひたすらラフマニノフの《ピアノ協奏曲第3番》やスクリャービンの後期ソナタを弾いて過ごしました。

ロシアを飛び出し、日本を経て、アメリカ、パリへ

セノオ楽譜の経営者・妹尾幸次郎(左)と音楽評論家・大田黒元雄と

1918年、27歳のプロコフィエフは、ロシア革命に揺れる故郷を出て、外国に行くことにしました。ウラジオストクから日本の福井県へ船で渡り、次の船が出るまでの2か月間、日本に滞在。帝国劇場でリサイタルをし、関西にも旅をしました。

プログラムでは彼は「世界的大作曲家大洋琴家」と紹介された。そのような人物が帝国劇場に来たのははじめてだった。曲目は彼の一連のピアノ・ソナタや《束の間の幻影》や小品、ショパン、シューマンの作品。

彼は日本の女性と夜を過ごした翌日、ファゴットへの倒錯的な愛を描いた短編小説「罪深い情熱」を書きはじめた(「越後獅子」に似ていると言われる《ピアノ協奏曲第3番》第3楽章の主題もファゴットだ)。

プロコフィエフのなかで日本的なものはファゴットと結びついていたのでしょうか?

日本を発ち、アメリカに1年8か月ほど滞在。そしてフランスへ旅立ちます。
パリでは、ロシア出身でバレエ・リュスの仕掛け人である興行主ディアギレフや、作曲家ストラヴィンスキーに久々に再会しました。

パリでストラヴィンスキー(右)と

30歳のときには、長年取り組んできたバレエ《道化師》、オペラ《3つのオレンジの恋》、《ピアノ協奏曲第3番》を初演します。

《道化師》初演は5月17日、ゲテ・リリック劇場。(中略)ストラヴィンスキーの《火の鳥》の後、彼が指揮台に立ち、ラリオーノフの色鮮やかな幕が上がる。彼の舞台作品全体の初演だ。30歳の特別な一日だった。

オペラ《3つのオレンジの恋》

その後はパリを拠点に、欧米を行き来する生活が十数年続きます。一方、ソ連となった故郷は、著名な亡命芸術家を国に呼び寄せようとしており、プロコフィエフもそれにこたえて、たびたびソ連に旅行しました。
44歳のときには、バレエ音楽《ロミオとジュリエット》を作曲します。

《ロミオとジュリエット》は台本がまとまり、五月末には音楽のスケッチもできはじめた。シェイクスピアの古典を前に彼の心はたかぶり、母国の人びとや自然に囲まれて、ここ数年に輝きを放っていたタイプのピュアで美しい音楽が激しく流れ出す。彼は、ソ連の聴衆のための単純さも大いに意識した。

ソ連での栄光と屈辱

転機は1936年、45歳になる年のこと。モスクワに完全に引っ越すことにしたのです。この年、モスクワの中央児童劇場から依頼され、瞬く間に作曲されたのが、子どものためのオーケストラの名曲《ピーターと狼》です。

彼は急いで《ピーターと狼》という斬新な音楽物語を書いた。のちにパリのラジオで、彼は、言葉を読み、それを音楽が描くという形式は自分のアイディアだと自慢した。

ソ連へ帰国後、プロコフィエフはスターリン賞を何度も受賞し、この上ない栄誉を手にしていました。状況が一変したのは56歳のとき。政治局員ジダーノフによって、プロコフィエフを含む音楽家たちが批判されたのです。

その決議では、ムラデリのオペラ《偉大なる友情》に対するスターリンの不満を出発点としながら、芸術問題委員会や作曲家同盟を含め、音楽界全体が批判され、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリャン、シェバリン、ポポフ、ミャスコフスキーらが、「形式主義的傾向」にあるとされた。

「形式主義」の欠陥とされたのは、古典音楽の基本原則の否定、無調、不協和音、旋律の拒絶、ポリフォニー(複数の声部がそれぞれの旋律的独自性を保持しつつ動く音楽形態)の拒絶などでした。

プロコフィエフの曲はいくつも演奏禁止になり、彼と家族の生活は苦しくなります。約1年後に禁止は解かれましたが、プロコフィエフの作品を上演しにくい雰囲気は残っていました。

一部の人間に形式主義者、モダニストの烙印を押されようとも、彼のまわりには自分の音楽に喜びを見出してくれる人びとがいた。彼は怒りや失望をおもてに出すことなく、ただひたすら作曲に打ち込んだ。単純さや旋律性をいっそう意識しながら。

批判から3年後に、プロコフィエフはふたたびスターリン賞を受賞し、失地回復を遂げました。

プロコフィエフが死去したのは、1953年3月5日。奇しくも、ソ連の最高指導者スターリンが死去した日と同じでした。プロコフィエフは61歳でした。

プロコフィエフの質素な告別式は、3月7日に作曲家同盟の建物で行われ、彼の友人たちが演奏を捧げた。フェインベルクはバッハを、オイストラフは故人の《ヴァイオリン・ソナタ第一番》の第一、第三楽章を弾いた。

《ヴァイオリン・ソナタ第1番》オイストラフの演奏

※この記事のエピソードは、すべて『作曲家◎人と作品 プロコフィエフ』(菊間史織著)からの抜粋です。

イベント情報
「作曲家◎人と作品 プロコフィエフ」オンライン講座好評受付中!

「作曲家◎人と作品」シリーズ新刊出版記念 プロコフィエフの生涯と作品に迫る

 

日程: 

前編:4月26日(金)「ロシア革命とプロコフィエフ」

後編:5月24日(金)「ソ連帰国前後のプロコフィエフ」

各日19時00分~20時30分(見逃し配信あり)

 

会場: オンライン(Zoomウェビナー)

料金(税込み): 講座のみ(2回):6600円(1回ずつの申し込みも可)

書籍付き:9240円

講師: 菊間史織(音楽学者)

主催: NHK文化センター 梅田教室

 

お申し込み・詳細:

2回コース

前編のみ

後編のみ

 

参考テキスト: 『作曲家◎人と作品 プロコフィエフ』

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