エリザベス女王の国葬と音楽〜受け継がれる伝統と新たな響きが女王の想いを映し出す
2022年9月19日、ウェストミンスター寺院にてエリザベス2世の国葬が執り行なわれました。葬儀としては第二次世界大戦以降、他に類を見ない最大規模のものとなり、音楽がその中心的な役割を果たしました。
今回の国葬は、ほとんどの英国民にとって、そして今年でイギリス在住20年目となる私にとっても、初めて見る情景ばかりでした。
英国国教会の「最高統治者」としても70年在位した女王の信仰やリクエストが反映された葬儀の選曲には、どのような作品があり、どのようなメッセージが込められていたのでしょうか。音楽と共に、この歴史的な日を振り返ってみましょう。
ロンドン在住。近年は演奏、作曲、執筆、レクチャーなど、多方面で活躍中。12歳でチューリヒ室内管弦楽団と共演してデビュー。以来、世界各地で演奏。英国王立音楽院の音楽学士...
ウェストミンスター宮殿からウェストミンスター寺院へ
エリザベス女王の葬儀は、女王の棺が公開安置されていたウェストミンスター宮殿からウェストミンスター寺院に運ばれる参列から始まり、ロンドンの街は、女王が愛したスコットランドの旋律を奏でるバグパイプとドラム奏者たちの音に、刻々と包まれていきました。
一方、ウェストミンスター寺院では響きが一変し、深い慰めを奏でるヴォーン・ウィリアムズの「交響曲第5番」より第3楽章「ロマンツァ」、エルガーの《ソスピリ(ため息)》Op.70など、17〜21世紀の英国とコモンウェルス(英連邦)の作曲家による名曲がオルガンの編曲で演奏され、世界各国の代表者や王族の参列を迎えました。
18世紀から王室のすべての葬儀で歌われてきた『葬儀の典礼』
実は何十年も前から女王と計画されてきたといわれる葬儀の選曲。それは英国国教会の礼拝と過去の王室葬儀の伝統に根ざしたものでした。
女王の棺が寺院に運び込まれ、その行進と共にウィリアム・クロフト(1678〜1727)とヘンリー・パーセル(1659〜1695)による聖歌が奉唱されました。この一連の聖歌集『Burial Service(葬儀の典礼)』は、1737年ジョージ2世の妻、キャロライン女王の葬儀以来、王室のすべての葬儀で歌われてきた作品です。
『Burial Service(葬儀の典礼)』は、クロフトが聖公会祈祷書を基に1724年に出版した宗教曲集『Musica Sacra(聖歌集)』に含まれています。
今回はその中から5つの聖歌が歌われましたが、そのうちの一つはパーセル作曲のものでした。さて、なぜ1曲だけパーセルなのでしょうか。それにはちゃんと理由があるのです。
クロフトは聖公会祈祷書の最も有名なセンテンスの一つである「Thou knowest, Lord, the secrets of our hearts(主よ、あなたは私達の心の秘密を知っています)」の作曲を試みた際、半世紀前にパーセルが作曲した同詩の聖歌を超えることはできないと感じたそうです。そのため、「遺影に相応しいパーセルの名を記す」と主張して彼自身がパーセルの聖歌を挿入し、この構成が定着したのです。なんて正直な作曲家だったのでしょう!
ウィリアム・クロフト:I am the resurrection and the life 「私は復活であり、命である」(映像:2:34:23より)
ヘンリー・パーセル:Thou knowest, Lord, the secrets of our hearts「主よ、あなたは私達の心の秘密を知っています」(映像:2:38:00より)
さらに、両作曲家ともウェストミンスター寺院のオルガン奏者を務め、寺院に葬られました。この空間で作曲された荘厳な響きは、まるでこの地に眠っている深い歴史を呼び起こしているかのように感じます。
イギリスの偉大な作曲家たちの傑作が次々と
女王の戴冠式の曲
♪レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ : O taste and see《味わい、見よ》
(映像:3:18:54より)
ウェストミンスター寺院に葬られ、エリザベス女王と関わりがあった作曲家といえば、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872〜1958)です。ヴォーン・ウィリアムズ(RVW)は1953の女王の戴冠式のためにモテット《味わい、見よ》(詩篇34)を作曲しました。トレブル(ボーイ・ソプラノ)のソロが美しく印象的な作品。今回もその天使のようなピュアな歌声に、心が洗われました。
今年生誕150周年を迎えるRVWですが、実は人生の大半は不可知論者だったのです。しかし、教会音楽には「人々の心を引き寄せる力がある」と信じ、彼は生涯にわたり教会のために多数の作品を作曲し、『イギリス賛美歌集』(1906年)の編集も務めました。
1958年9月19日、RVWの葬儀もウェストミンスター寺院にて行なわれました。そう、なんと今回の葬儀と同じ9月19日に。そして彼がリクエストした『Burial Service(葬儀の典礼)』や、「味わい、見よ」も歌われました。なんとも不思議な因縁を感じます。
暗闇のなかに希望を見出す
♪ヒューバート・パリー : My Soul, there is a Country 《告別の歌》より第1曲、「わが魂よ、御国は」
(映像:3:07:49より)
この作品は、もしかしたらパリーの音楽がお好きなチャールズ3世によるリクエストだったのかもしれません。
ヒューバート・パリー(1848〜1918)は、王立音楽大学(RCM)におけるヴォーン・ウィリアムズの最初の作曲の先生でした。1916〜18年に書かれた6つのモテット《告別の歌》は、第一次世界大戦の最も暗い時期に書かれた晩年の作品。しかしこの第1曲「わが魂よ、御国は」では、ハーモニーは極めて暖かく、天から希望の光が差します。
この作品の演奏の前に、英国国教会の主席聖職者、ジャステイン・ウェルビーによる説教で言及されたのは、女王の言葉「We will meet again(また会いましょう)」。英国がコロナ禍で最も厳しい状況に直面した際、女王はこの言葉を語り、多くの国民を勇気づけました。
「見えないなかに希望を見出す」というメッセージから始まった今回の演奏の、語りかけてくるような表現は、よりいっそう女王の想いを表しているようでした。
英国を代表する二人の作曲家が葬儀のために書いた新曲
今回演奏されたのは、過去の作曲家による作品だけではありません。英国を代表する二人の作曲家、ジュディス・ウィアーとジェームズ・マクミランによる葬儀のための新曲も聴いてみましょう。
慰めの想いが頂点に
♪ジュディス・ウィアー : Like as a Hart 「鹿が水をあえぎ求めるように」
(映像:2:53:22より)
スコットランド出身の作曲家、ジュディス・ウィアー(1954 〜)は、2014年に女性としては歴代初の王室音楽師範に就任し、女王の様々な式典のために数々の作品を作曲しました。
今回の作品について、ウィアーは「女王の英国国教会の信仰が、私のインスピレーションとなった」と発表しました。詩篇42を基に作曲するというのは、ウェストミンスター寺院の提案だったそうです。
この曲の「My tears have been my meat day and night(私の涙は昼も夜も私の食となりました)」は最も切ない響きとなり、そこから最後の「Put thy trust in God (神に期待せよ)」まで少しずつ希望が取り戻されていき、慰めの想いが徐々に頂点に達します。
女王が大事にしていた言葉
♪ジェームズ・マクミラン : Who Shall Separate Us? 「だれが、わたしたちを引き離すことができましょう?」
(映像:3:27:23より)
スコットランド出身の作曲家、サー・ジェームズ・マクミラン(1959〜)による作品は、今回、礼拝の最も厳粛な部分ともいわれる賛美の祈りのために作曲されました。
新曲といっても、委嘱を受け作曲したのは2011〜2012年ごろだったそうです(まさか、たった10日間で作曲されたとは思いませんでしたが、10年も前だったとは)。
マクミランによると、「ローマの信徒への手紙」第8章より「だれが、わたしたちを引き離すことができましょう?」は女王が最も大事にしていた言葉の一つだそうです。
マクミランらしい近代的なハーモニーに加え、ほとばしる感情を織りなす各声部の動きやクライマックスの「アレルヤ!」には、心を強く揺さぶられました。
最後のお別れ
女王のバグパイプ奏者による
♪哀歌:Sleep, Dearie, Sleep「眠り、眠りなさい、最愛の人よ」
(映像:3:37:22より)
最後に国歌《God Save the King》が歌われたあと、女王のパイパー(バグパイプ奏者)、ポール・バーンズがこの哀歌を演奏しました。
バグパイプがお好きだった女王は、毎朝9時にバーンズが外で演奏するのを聴いたそうです。女王にとって最も日常的だった音が、次第に遠ざかっていき……音が消えたとき、それは最も切ない瞬間でした。寺院は深い静寂に包まれました。
沈黙のあと、バッハの「幻想曲とフーガ ハ短調」のオルガン演奏と共に、女王の棺はウィンザー城での埋葬式へと運ばれていきました。
女王の精神が託された音楽
今回の選曲は一見シンプルでありながらも、各曲には様々な想いが反映されていました。
英国公共放送で1日にわたり宗教の式典が放映されるのは、1953年の女王の戴冠式以来とのことでした。何より、これほど英国の音楽が演奏され、世界中に放映されたのは歴史上初めてなのではないでしょうか。
今回はウェストミンスター寺院での葬儀の音楽に焦点を当てましたが、ウィンザー城の埋葬式でも、イギリスの作曲家、ハーバート・ハウエルズ(1892〜1983)、エセル・スマイス(1858〜1944)、サミュエル・コールリッジ=テイラー(1875-1912)の知られざる作品が次々と演奏されたのです。
英国音楽の素晴らしさ、そして王室と音楽の深い歴史を改めて実感した今回の葬儀。エリザベス女王が21歳のときに「私たちみんなが帰属する、偉大な英帝国のために尽くします」と誓ったように、音楽にもその精神が託されていたように感じました。
May flights of Angels sing thee to thy rest.
天を舞う天使たちの歌声を聴きながら休まれますように
(チャールズ3世)
日時:2022年10月31日(月)19:00 開演
会場 :銀座 王子ホール
出演:小町碧(ヴァイオリン)、加藤昌則(ピアノ)林田直樹(音楽ジャーナリスト・トークコーナー司会)
曲目:レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958) グリーンスリーヴズによる幻想曲(編曲:ムリナー)/『旅の歌』より第7曲「私はどこへさすらう のか?」/『命の家』より第2曲「静寂の真昼」/ピアノのための「山の湖」/揚げひばり(ヴァイオリンとピアノ版)/ヴァイオリン とピアノのためのソナタ イ短調
チケット:5,000円(全席指定)
公演詳細はこちら
関連する記事
-
礒絵里子が挑むブラームスとドヴォルザーク〜ソロから五重奏まで室内楽の魅力を堪能
-
【速報】NHK交響楽団 定期公演2025-26シーズンのラインナップが発表
-
井上道義、店村眞積が語る師・斎藤秀雄への複雑な想い
ランキング
- Daily
- Monthly
関連する記事
ランキング
- Daily
- Monthly