「良い声」を科学する。音声外来から生まれたヴォイス・トレーニングとは?
歌う人はみんな知りたい、ヴォイス・トレーニング。歌は感性で歌うもの? いえいえ、「良い声」には科学的な根拠が存在するのです!
発声のメカニズムを科学的・医学的に明らかにし、それを歌のメソッドに昇華して教えている声楽家、後野仁彦先生のヴォイスメンテナンススタジオJ&Jに潜入してみました。
専門は学校音楽教育(音楽科授業、音楽系部活動など)。月刊誌『教育音楽』『バンドジャーナル』などで取材・執筆多数。近著に『音楽の授業で大切なこと』(共著・東洋館出版社)...
「歌を歌う」とき、自分の体がどのように息を吸い、声を紡ぎ、音を響かせているのか……考えたことがある人は、あまり多くはないかもしれません。あるいは、「こういう思いをこめて歌えばいい」「こんなイメージを持って声を出せばいい」という方向性のレッスンやアドバイスを受けてきた人も多いでしょう。「だって、芸術は科学では説明できないものだから」と。
でも今は科学技術や医療技術が発達し、人の体の中がどうなっているかまで鮮明にわかる時代。そんな中で歌のレッスンも科学の恩恵を受け、確実に進化していたのです……!
体の仕組みを具体的に解説
今回拝見したのは、川崎市麻生区に教室を構える「ヴォイスメンテナンススタジオJ&J」。トレーナーでバリトン歌手の後野仁彦先生は、国内有数の「音声外来」を構える、はぎの耳鼻咽喉科の萩野仁志院長とタッグを組んで発声のメカニズムを科学的・医学的に明らかにし、それを歌のメソッドに組み上げてレッスン生の皆さんに伝えています。
レッスンを取材させてくださった、1人目の生徒さんは、鬼頭尚美さん(50代)。音大で声楽を学んだあと、子育てなどのブランクを経て、高齢者施設で歌と語りを1人で担うワークショップなどを受け持っていましたが(つまり、休みなく声を使っていたということ)、無理がたたって喉を壊してしまい……はぎの耳鼻咽喉科を受診したことをきっかけに、このスタジオにも通い始めたとのことです。
後野先生によるレッスンは、「ソラシドレドシラソー」の音形で「あああああああああー」と歌い、それを半音ずつ上げていく発声練習からスタート。姿勢や口の開け方、たっぷりと息を吸うことを常に意識し、鏡で自分のフォームをチェックしながら声を出す鬼頭さん。芯のしっかりした密度の濃い声は、まさに体という楽器が存分に鳴っているような印象です。鬼頭さんは胸を張り、鳩尾(みぞおち)を突き出すようなポーズをキープしながらどんどん高音域へ……この姿が実は、高い音をしっかり出すための鍵にもなっているのです。
この姿勢を取ったとき、首から胸につながっている「斜角筋」という筋肉が緊張します。
「斜角筋に力が入ると咽頭が下がり、声帯を囲んでいる甲状軟骨というのが引っ張られて、声帯がぴんと張って高い音が出る。輪ゴムを引っ張って弾くと高い音がするのと同じことが声帯で起きるんですね。逆に斜角筋が緩むと喉頭が上がり、高い音は出にくくなる」と後野先生。
多くのヴォイストレーナーが「力を入れずに歌いなさい」と指導するものの、それでは状況が改善しない人が多いのもここに所以があると言います。
「筋肉は力が抜けると緩むもの。つまり、高い音を歌うときには斜角筋に力が入るのが当たり前……なんだけど、そこにまるで力が入っていないような感覚で歌えるようになるまでには慣れが必要。
ここだけに力を入れると筋肉がこわばるから、中でつながっている筋膜たちのコンタクトを使って。斜角筋は肋骨につながり、さらに肺や横隔膜が筋膜でつながっている。鳩尾が前に出ることで、それらが滑車のように全部引っ張られて声帯につながる。だから鳩尾がへこまないように歌いましょうよ……というのが理屈なの」
体の仕組みを具体的に解説し、「だからこの姿勢が必要」と明快に結論付ける後野先生のレクチャー。「体を知らないと、歌はやっぱり歌えないなって最近改めて思います」と頷いた鬼頭さんは、高音域のソやラの音もあっという間にクリア。後野先生は「よーしできた!」と歓声を上げ、満面の笑みで一緒に喜びます。
音域はさらに上がり、「ファソラシドシラソファー」とト音記号に加線2本のドの音まで。やや不安定になった鬼頭さんの発声にも後野先生は力強く頷き、
「今はまだコントロールが利いていないけど、それは『声を放り出すこと』はできたものの、それだけの高い声を支える腹圧(横隔膜の下、内臓を収めている空間にかけられる力)がまだ生まれていないから。つまり声をコントロールできるようになるためには、その圧を超えられるようになればいい」
と、鬼頭さんの現状と次の目標を明確に示します。
「練習し続けているとコントロールできるようになりますか?」
「そうそう。筋肉がちゃんと働いて、充分な腹圧がかけられるようになる!」
大きく肯う後野先生に、鬼頭さんも「頑張ればできるようになるんだ」という見通しや希望が湧いてきたようです。
MRIで喉の奥が明らかに!
発音に関しても、体の仕組みを知り・諸器官を適切に使うことはやはり大切。鬼頭さんが今取り組んでいるレッスン曲《Ave Maria》(カッチーニ)の冒頭、「アーヴェー」の部分について、後野先生はまず「アーエー」と母音だけで歌いながら口の中を鏡で見てみるよう指示しました。
「『E』で舌根が盛り上がるのが正しい発音。多くの先生は『舌根が盛り上がるのは、舌に力が入っているから』と言うけれど、実は力を入れていないときのほうが盛り上がる。なぜなら舌は下顎の中にお布団を畳んだように入っているけど、舌も筋肉だから本当は広がって伸びたいし、それこそが『力が抜けている状態』。だから、多くの先生が言う『舌を下ろして歌いなさい』というのは逆に力を入れていることになるんだよ」と後野先生。
とはいえ、それでは口の中が狭くなってしまうのでは……と心配になってしまうところですが、後野先生はこう続けました。
「実は『E』や『I』では舌根が前に来て、喉の奥の空間が広くなる。これは正面から鏡で見るだけではわからないけど、MRIを使って、発声しているときの喉の様子を画像診断するとわかること。パヴァロッティやドミンゴら、名歌手の口の中が映っている動画を見ても、EやIで舌根が上がっている。彼らがこの理屈を知っていたかどうかは知らないけど、僕は自分がMRIに入ってみて『ああ、やっぱりそうなるんだ』と思ったんだ」
ルチアーノ・パヴァロッティが歌う、《トスカ》(プッチーニ)より〈星は光りぬ〉
最新の医療機器は、肉眼では見えない喉のしくみをもつぶさに明らかにし、歌うことへのヒントも与えてくれたのです。
「ただし、その条件はどの母音でも顎の広さが同じになっていること。だから、AとEで顎や唇の形が大きく変わってしまっては意味がない」
……だからこそ、「アーエー」と母音を続けて歌う練習が必要だったのでした。
「さらにいうと、喉の奥の空間の広さはAが中間で、そこからEやIになると広くなり、OやUでは狭くなる。だから同じ高さの音でも、Oを歌うときとIを歌うときでは通る息の量が全然違うんだよ。道の広さが変わるのだから、それに合わせて腹圧も変えなければ」
後野先生の解説に、鬼頭さんは「そんなこと考えて歌ってないです」と苦笑い。でも先生は「これからは考えよう!」とその重要性を説きます。
「『こうやれば声が出る』という根拠がなく、出たとこ勝負に任せていたら、舞台に上がってちょっと不安になっただけでもう何もできなくなっちゃう。でも『これをやれば絶対出る』というのを理解していれば何があっても大丈夫」
科学や理屈で声の仕組みを理解することは、自信にもつながるのです。
「声を大切にすること」が与えてくれた夢
鬼頭さんは後野先生のレッスンを受け始めて7年ほど。
「ここで『声を大切にすること』を初めて教えてもらいました。それまでに学んでいた声楽では、発声に関して、自然に・無意識に声を出すばかりだったので……ここでのレッスンは目から鱗が落ちるようだし、後野先生に教えていただいた『声の大事さ』や声の使い方がなければ、今の私は多分ないと思います」と喜びます。
「私はもういい年だけど、レッスンを通じて『もう1回、コンサートの舞台に立ちたい』とも思うようになりました」
と、発声を学ぶことで声の寿命をも伸ばし、新たな夢も見つけられた様子。
声の寿命を伸ばせば、何歳まででも歌える
この日レッスンを見せてくださったもう1人の生徒さん・山本恵子さんも、大学時代から合唱やさまざまなボイストレーニングを経験してきたものの、後野先生のレッスンに「それまでに学んできた概念とは全然違う」と衝撃を受けたそう。還暦を迎えた今も合唱団の一員として歌を楽しみつつ、後野先生のレッスンでは大好きなオペラアリアに挑戦しています。
「『あのオペラのあの曲が歌えるようになりたい』と目標を立てて頑張っています。とはいえ頑張っても3歩進んで2歩下がることの繰り返しですけど、体を使って姿勢を正し、たっぷり呼吸しながら歌うのは健康や老化防止にもいいし」
レッスンに通うことで日々の生活や人生にもメリハリがついたようです。
このスタジオに在籍するのは、16歳の音大受験生から85歳の声楽愛好家まで。またクラシックの声楽を志す方だけでなく、民謡や詩吟などジャンルの異なる方も多いそうです。
「日本民謡や詩吟等は声道を狭めて声を出すことが多いのですが、ここではクラシックのフォームで、喉を楽にして歌う方法を覚えていただきます。喉のフォームはクラシックのままでも、歌い回し次第で民謡らしい歌は歌えるし、喉も疲れないから音域も広がる。すると今まで歌えなかった難易度の高い歌も歌えるようになり、しかも年齢を着々と重ねているにも関わらず、声が出続けるようになるんです」
さらにはアナウンサーや声優など、声を職業にしている方の受講も多いそう。
「そのような方々に対してもレッスン内容は同じで、歌を教えます。なぜなら、話すことは歌の内側にあることだから。歌うための体の使い方ができれば、そのまま話せばいいんです。特に声優さんは奇抜な声を要求されることも多く、喉を傷めてしまいやすい。でも体の使い方を覚えておけば、トラブルも減らせますから」
「人間の声がどうやって出るかというのは、すべて理屈。『声帯が振動して声が出る』ということは皆さんご存知でしょうが、蜜蜂の羽ほどの大きさしかない声帯が多少振動したところで声にはならないし、声帯で生まれたそのわずかな音が、喉や鼻の空洞に反響して声になる。だから、大切なのはその仕組みを『一番効率よく使うにはどうしたらいいか』『そのためにはどの筋肉をどう動かせばいいか』。かつてはそれを情感的に聴いて判断していたわけですが、今日ではその仕組みを機械で測定できるようになり、いい声の出し方が誰にでもわかる形で判断できるようになった」
歌を歌うにせよ歌わないにせよ、声を発することは生活や仕事にも不可欠。だからこそ、発声を学ぶことはすべての人にとって、日々や人生をより豊かにすることにもつながるでしょう。
スタジオではレッスンを随時受け付けているとのこと。
「ただ、今までに学んだ発声に対する思いこみや『こうでなければダメ』という先入観が強い方は、僕がその範囲から逸脱したところから何かを伝えようとしても受け入れ難いかもしれません。だけど、まっさらな気持ちで『自分の中に眠っている、新しい自分に出会いたい』という方は、ぜひどうぞ」
後野先生は声を通じて自分の可能性を広げたいという人を歓迎・応援しています。
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