斎藤誠のルーツからサザンオールスターズのサポートまで「音に厳しく、音を優しく」の人生を語る
今回登場するのは、シンガーソングライターそしてサザンオールスターズのサポートギタリストとして、ポップス/ロックの世界で30年以上活躍している斎藤誠。
聞き手を務めるのはメジャーデビューした83年からの付き合いである我らが編集部長、大谷隆夫。桑田佳祐さんの「音楽をやめるのは10年早い」というアドバイスがなければ、2人は音楽之友社で一緒に働いていたかもしれない......!?
ミュージシャンとして圧倒的な信頼を得る斎藤に、音楽との出会い、向き合いかたを大いに語ってもらった。
稀代のシンガー・ソングライター&ギタリストの1人、斎藤誠。83年にメジャー・デビューして、35年間に渡り活躍を続ける彼に久しぶりに再会した。
出会いは日本コロムビアからデビューした彼がアルファレコードに移籍し、89年、6枚目のアルバム『MAH MAH MAH』を発表したときに遡る。実に30年以上の関係になるが、「週刊FM」時代(1991年休刊)以降、あまり接触がなく本当に久しぶりのインタビューとなる。
斎藤誠は、知る人ぞ知る、サザンオールスターズのサポートギタリストとして2000年に加入。今や桑田佳祐になくてはならない存在になっている(桑田佳祐のソロツアーには1994年から参加)。
好きなメロディは全部弾きたかったギター少年
——まずは、ご自身の音楽的変遷を話してください。
斎藤: どこから話そうかな(笑)。父は銀行マンで、母と4歳上の兄との4人家族。小さいときから父親の転勤で住居が転々としていました。
家族そろって音楽大好きで、家族でよく「ジュリー・アンドリュース・ショウ」「トム・ジョーンズ・ショウ」といった海外の音楽TV番組を楽しみ、兄が中学時代、ベンチャーズのファンでバンドを組んでいた、という環境だったので、小学生の頃、いつも傍に音楽がありました。兄の影響力は絶大で、自分の将来はそこで決まっていたのかもしれないですね。
音楽の情報は、ラジオ関東(現在のラジオ日本)の洋楽ヒットチャート番組を毎日聴き、ノートにアーティスト名、曲とチャートを書き綴っていました。ビートルズのシングル盤や……そうそう、ストーンズも1枚だけ買いました。
小学校3年のとき、テレビの歌番組で内田裕也さんが「一人ぼっちの世界」という曲を歌っていたのを観てレコード店に行き店員に欲しいと伝えたら、“それはないなあ坊や、それならこれを聴きなさい、これぞ本家本物だよ!”とザ・ローリング・ストーンズを出され、貯めた小遣いで買ったんです。370円だったかな。
斎藤: 貯めると言えば、兄の影響でギターに目覚めたのが4年生のとき。貯めたお小遣い2700円で、中古の鉄弦が張ってあるクラシックギターもどきを下北沢のディスカウントショップに買いに行ったことを、昨日のように覚えています。
身体が小さかった僕は、巨大なギターを抱え、当時のNHK教育テレビ3ch「ギター教室」を観ながら、テキストも買わず、耳コピーで弾いていました。それと当時よくあったテレビの5秒間CMの音楽を真似たりしながら、ギターの響きを楽しみながら遊んでましたね。
好きになったメロディはどんなものでも弾いてみたいという衝動は、その頃から強かったと思います。
音楽がなくてはならないと気付いた青春時代
——その頃に影響を受けていた音楽やアーティストは?
斎藤: 初めてのLP購入はビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド』。とにかく洋楽と言えば、ビートルズだった。来日コンサートはTV番組を食い入るように観ましたよ。4人の中で一番自分たち子どもにも優しそうに見えたポール・マッカートニーのファンになりましたね。LP『アビイ・ロード』も聴きました。周りの友だちが野球だとかサッカーに関心を寄せていたのに、僕の頭は洋楽だらけでした。
斎藤: そして70年のビートルズ解散。ぽっかり空いた穴を埋めたのがハードロックでした。それも当時大人が好んで聴いていたレッド・ツェッペリン(1968-1980)とかディープ・パープル(1968-1976/1984-)ではなく、巨漢ギタリスト、レズリー・ウエストのいるマウンテン(1969-1975/1996-)に傾倒してゆきます。アルバム『悪の華』は、まるまる全曲紹介するFM番組を聴き入りました。
斎藤: それからエリック・クラプトンのクリーム(1966-1968)に遡って、彼のデレク&ザ・ドミノス(1970-1971)やソロ作などを聴いていくわけです。エリック・クラプトンは爆発的なヒットとなった『461オーシャン・ブールヴァード』で初来日した日本武道館を観に行きました。想像していたイメージと違ってビックリ。レイドバックする(編集部註:ゆったり大きく乗る)カッコ良さっていうのを理解できなかったんですね。でも、それもだんだん身にしみてわかってくるんです。
斎藤: 今でも同じ思いだけれど、高校生になったその頃、音楽というものが、心と身体をどうしようもなく震わせるもので、自分にはなくてはならない存在だと気づき始めたんです。
高校ではロングヘアでテニス部に所属していたけど、やっぱり音楽のほうが楽しくて、ロックの色気とその魅力に傾倒して行きます。まあ、とは言いながら、デレク&ドミノス~マウンテン~ロリー・ギャラガーを文化祭で演奏したのには、別の理由もありました。一向に振り向いてくれない隣のクラスの彼女に聴いてもらいたかった。つまり、とてもわかりやすい思春期ですね(笑)。
桑田佳祐の一言で始まったミュージシャン人生
——人生の分岐点はどんなことから起きましたか?
斎藤: 浪人時代、兄の通っていた青山学院大学の学園祭に遊びに行き、デビュー2年前のサザンオールスターズのライブを目撃。翌年、同大学に入学し、サザンのいる音楽サークル「BETTER DAYS」に入部しました。その後、デビュー前のサザンを応援しながら、自分もバンドを組んで活動に没頭しました。
そして、今後の方針も決まらないまま就職を考える時期になり、なんと、音楽之友社を受けるため書類やレポートまで用意し、ネクタイを締めて友社に会社訪問しました。
人生の分かれ道は、桑田佳祐さんの一言、“お前が音楽を辞めるのは10年早い!”のアドヴァイス。プロの道に進むことを決心しました。そこから原由子さんのバンド“ハラボーズ”などで演奏しながら83年のソロデビューとなります。
——デビュー後はどんな活動から始まったんですか?
斎藤: アルファレコードの時代(1989年)、大谷さんと「週刊FM」主催の読者招待イベント企画でアコースティック・ギグ(ライブ)を立案して、東京・名古屋・大阪・福岡で開催し、音楽の友ホールでクリスマス・ライブも実現しましたね。そのときの感触が素晴らしく、以降、自分の重要なライブ形態であるアコースティック・ライブの原点になりました。
その1年前の1989年1月14日、MZA有明にて一発録りのレコーディングライブを行ない、『MAH MAH MAH』という新曲ばかりのライブアルバムに仕上げました。そのときのゲストミュージシャンに、ドゥービー・ブラザーズ/スティーリー・ダンで名うてのギタリスト、ジェフ・バクスター、超絶技巧ドラマー、チャド・ワッカーマン、スーパード迫力キーボーディスト、グレッグ・マディソンの凄腕たちを迎えての一発録り。その緊張と興奮は今も忘れられない最高の思い出です(本当は、本番とリハと“二発録り”だったとか)。
音楽を「空気の中で聴く」体感が得られるイクリプス
——音に厳しく、音を優しくの斎藤誠は、普段どのように音楽を聴いていますか?
斎藤: 父親と兄の影響もあり、小さい頃から音楽に接し、生の楽器音にも触れている僕ですが、イクリプス(ECLIPSE)CDR1と出会うまで、音楽制作にはわりとチープなスピーカーを使っていました。というのは、いろんな人がさまざまなシチュエーションで聴いているわけで、ゴージャスなスピーカーを使って判断しても、それが必ずしも聴く側に再現されるとは限らないからです。
CDR1。聴く前にイメージしていたのは、落ち着いたバランスのとれた音。しっとりと大人っぽいサウンドの製品だろうと思っていました。
ところが聴いてみたら、明るくポップさが前面に出ていてナイス! パッションを感じました。僕はいろいろな角度から聴きます。目の前に近づけたり、耳に近づけたりして、また横で聴いたりしてもすごく気持ちがいい。やる気がでましたね! モチベーションが上がりましたよ。
大好きなCDを聴くのはもちろん、自然にモニターとしても使いたくなります。つまり、音楽を聴いて楽しむだけでなく、仕事でも活用できます。
スピーカーは棚に入れて聴くより、自由で開放的なセッティングをしようと考えています。家のスタジオルームで聴くポジションはいつも決まって一定だけれど、スピーカーの位置や角度の自由度はほしい。イクリプスは角度を変えるのが簡単だから、これならOK!
斎藤: イクリプスは大音量でも充分対応してくれますが、小さな音で聴いても、楽器の一音一音がしっかり聴こえます。例えば、ドラムのハイハットがバシッと決まる音とか、ベースの低音もしっかり出ている。
そして、やっぱり気になるのは歌。声です! ノドのザラザラした、ひだの感じが再現できているか否かがいつも気になるポイントなんですが、実にうまく表現できている。オーディオに詳しくなくてもハートに触れる、そんな酔い心地にしてくれます。まさに目の前で聴こえてくるライブ感! ガツンと来ましたよ。
ヘッドフォンでは味わえない、空気の中で聴く、そんな体感が大切。そしてスピーカーで聴きながら、その音楽についてみんなで話せるエア感も若い人たちに知ってもらいたいですね。
斎藤誠は、この製品の特徴を知るために何枚かのCDを用意した。それはハードロックからジャズボーカル、ヒップホップ、カントリー、そして自身の最新シングルCDなど。どの作品もスピーカーの味わいを確かめるのに最適なものばかりで、さすがにプロデュース業をするだけのことはあるな、と感心してしまう。
音楽に救われてきた自分が、音楽で出し惜しみはできない
——今後の誠さんの活動を聞くうえで、ソロ活動とサザンの活動について触れたくなりますね。
斎藤: サザンは勉強の場。スキルを磨くうえで、ものすごい経験になっています。5、6万人の前でギタリストとしてどう演奏をし、対応するか、役割を担うか。どうしたらお客さんを笑顔にできるか。それらを学ぶ大切な場になっています。
サザンのライブとレコーディングを経験する中でわかってきたことで、私にとっては掛け替えのない体験です。自ずとソロ活動でも大変な力になっているし、ギタープレイ自体も向上していく。さらに自分が求める音楽を見出すヒントにもつながっています。
ソロ活動では、ライブであろうが作品であろうが、ありのままの自分を見てもらう、ステージではしゃぐ還暦過ぎの音楽バカを観て、呆れながら、音楽ってまだまだイケるねと感じてもらいたいです。
へこんだとき、やるせないとき、大好きな音楽に何度も救われてきた。そういうラッキーな自分が怠けたり、休んだり、出し惜しみなんか絶対にしてはいけないと思う。ライブで見るお客さんの笑顔が一番好きなんです。彼らに受けるなら、なんでもやっちゃう。これからも自分を信じ、コンスタントに音楽を作り続けること。時代が変わって、ますます音楽が聴かれなくなっていき、厳しい世界だともちろん認識はしているけど、それはそれ。でも音楽するんだよ! と(笑)。
斎藤: 次のアルバムへの曲作りは、昨年リリースしたシングル含め、現在デモで70%ぐらいできていて、リリースの形態は現在検討中。60年代から80年代の洋楽が今の自分を作っています。
一時期、それを素直に作品に出せなかった時代もあったけど、この歳になると、とても自分らしいと思えて愛おしいんですよ。ベテラン洋楽ファンの斎藤誠が歌う新しい歌。あの頃どうしようもなく心が震え、胸を熱くしたロックミュージックたちへのオマージュを素直に作品にしたいと考えています。
ライブに関しては、これからも2本立て。アコースティック・ライブとバンド・ライブをバランス取りながらずっと続けていきたいですね。力まず自分の力をだしていければと思います。
最後に斎藤誠が語った言葉、それは、「生の音が一番。ライブであろうとレコーディングであろうと、生の演奏と生の歌をいつも同じテンションで表現できるようにすること。でもまだまだ勉強です」だった。
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