インタビュー
2019.12.19
住空間の中のオーディオ Vol.8

杉山清貴&オメガトライブの絶頂期での解散、その後――音楽の要はどこにあるのか?

夏を想起するバンドは内外にいる。少し昔で言えばビーチボーイズとかジャーン&ディーンがそうだし、加山雄三、サザンオールスターズ、山下達郎が思い浮かぶ。
今回は、Tubeと同様、1980年代を代表する夏バンドとして、記憶の中で今なお鮮明に輝きを放っている、元杉山清貴&オメガトライブの杉山清貴さんにインタビュー!

聞き手・文
大谷隆夫
聞き手・文
大谷隆夫 音楽之友社 編集部担当常務取締役

東京生まれの東京育ち。田舎に憧れ、自給自足を夢見るオジサン(多分無理)。中近東の転勤を命ぜられ広告会社を退社し、現在の出版社に就く。FM誌の編集を経験した後休刊と同時...

提供:デンソーテン
写真:Stereo編集部

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85年、絶頂期での解散後

今回のデンソーテン提供 “住空間の中のオーディオ”の企画に登場いただいたアーティストは、杉山清貴さん。この企画でも登場したスタ☆レビの根本要さん、ギタリストの斎藤誠さんとも同世代で、彼らは現在も第一線で音楽活動をやっている現役アーティストである。デビューして35年を過ぎ、還暦になっても艶のある、そして清涼感あふれる声はますます健在だ。

杉山清貴のトップトラック

85年解散してもなお、杉山清貴&オメガトライブの音楽が新鮮かつ完成度の高いサウンドとして評価されるが、彼らの生みの親、育ての親である音楽プロデューサー、故藤田浩一氏が「始まりは終わりであり、終わりは始まりでもある。オメガトライブは輪廻転生。必ずまた注目される」と語った言葉に、改めて頷いてしまう。

インタビューを担当する私にとって、今は休刊になっている「週刊FM」に1984年に転籍して、初めて行なう取材が杉山清貴&オメガトライブだった。その後お付き合いもあったが、それから実に約30年以上のブランクを経て会うことになり、果たして彼の記憶に残っているか少し不安でもあった。

杉山清貴の音楽遍歴とバンド活動

——お久しぶりです! 1984年に「週刊FM」の編集担当として湘南でヨットに乗っていただき、みなさんに同じT-シャツを着てもらい、1日かけて取材させていただきました。その後12日でファンクラブの集いに家族を連れて伺いました。

杉山清貴 あー、はい、覚えていますよ。「SUMMER SUSPICION」を出して、夏と海をイメージしようとみんなで車に乗って行きましたね。そうだ、ファンクラブの集いは御前崎でやりましたね!

——よかった、覚えていましたか! 今日はデンソーテンの企画で杉山清貴さんにスポットをあててお話を伺います。デビューして35年を過ぎますが、まずご自身の音楽との出会いから聞かせてください。

杉山 音楽を聴き始めたきっかけは、友だちの兄貴が聴いていたビートルズの音楽に衝撃を受けて、4年生のときだった。それから、すべてのお小遣い、お年玉を貯めてはシングル、アルバムを買いあさり、中2までで全作品を買いました。ちょうど1970年、ビートルズが解散するころでしたね。

最初に購入した楽器は1万5千円ぐらいだったかな、ブランドもわからないエレキギターで、弾いていた曲は、コードも知らないので日曜日のTV番組「笑点」のテーマソング(笑)。それからフォークにも興味を持ち始め、吉田拓郎、井上陽水を聴いて、アコースティックギターを買いました。

バンド活動は中2のころユニットを結成し、オリジナル曲を書き始めて、中3の文化祭のとき、私がヴォーカルとギターでビートルズの曲を演奏していました。

え、モテたい? 全然。その時代はフォークが流行っていて、みんなバンドやっていたので、別段目立つわけでもなかったですね。

——そうですか! 斎藤誠さんは、女性にモテたい、との意識からバンドやり始めたようですよ? 彼が育ったのは静岡だからなのかな? 杉山さんは横浜関内で、環境が違いますかね(笑)。

杉山 ハハハハハ。それから高校卒業して、進学するつもりもなく、楽をしたいから(笑)親を説得して一人暮らしを始め、横浜関内のライブハウスで働くようになり、ブッキングとか店を任されていました。そのころ、トロピカルブームで、ハワイのカラパナが人気で、海の歌を作っていました。

それでその時期に、ライブハウスにくる仲間、そうですね、オメガの前身となるバンド(そのころのバンド名は“きゅうてぃぱんちょす”)ができて、ヤマハのディレクターの誘いで、1979年ヤマハポピュラーソングコンテストの秋の大会に出場することになりました。そのときのグランプリは「大都会」を歌ったクリスタル・キング。根本要のバンド、“アレレノレ”も出ていましたね。彼とはそのときからの友だちです。

杉山清貴(シンガーソングライター)。1959年生まれ。1983年に杉山清貴&オメガトライブとして「サマーサスピション」でバップレコードよりデビュー。オメガトライブが解散した85年の翌年、「さよならのオーシャン」でソロデビュー。2018年にはデビュー35周年を迎え、“杉山清貴&オメガトライブ”として日比谷野外音楽堂で再集結ライブを敢行。現在も弾き語りを中心に精力的に活動中。

——好奇心旺盛な多感期でしたね。それでデビューすることになるには?

杉山 その頃は新しいバンドの青田買いの時代で、コンテストに出ていたら、僕たちに目をつけていて後に所属することになるトライアングル・プロダクションの社長、藤田浩一氏に誘われ、指定の楽曲(林哲司/康珍化/秋元康)とプロの演奏による作品を条件にデビューすることを承諾しました。83年の「SUMMER SUSPICION」がデビュー作品になります。

——え、オメガのシングル7枚、アルバム5枚とも演奏はメンバーじゃないの?

杉山 はい! 藤田氏の強い意向で、非常に繊細できめ細かい要望があり、作詞、作曲から演奏に至るまで彼のアイディアとこだわりがあって、よく作家とぶつかっていました。しまいには作家から“ならあんたが書けよ!”とまで。でも、結局は藤田さんの思い通りになっていましたね。

僕たちは、彼の世界観を演じる役回りでした。でもバンドとしてライブはやっていましたから、レコーディングのとき、みんなでスタジオミュージシャンの演奏を細かくチェック(コピー)していました。あのころのバンドは自分たちでレコーディングしていないことが多かったと思いますよ。初めてのコード進行とかテンション・コード、ハイセンスなリズム・パターン、グルーヴ感などの演奏技法は、バンドでやっていたら時間がかかって、藤田氏の要望に応えられなかったと思いますね。

——次々とヒット曲を出し続けていたのに、デビューして確か3年弱で解散してしまった。すごい人気なのになぜ? と思いましたが、真相は?

杉山  そうでね、28か月です。そもそも当初はバンドじゃなく、ソロアーティストを藤田氏は求めていました。先ほども話したように、そこには藤田氏が求める音楽の世界があり、従って楽曲も自分が描く世界観を作家に求めていたし、演奏もトップのスタジオミュージシャンを使うという、いわば“プロジェクト”としてやっていました。

でも、僕はいつか売れたら、自分たちで曲を作り、演奏もしたい。そこで挫折したら自分たちの責任だし納得もする。ところが、売れたらますますその願いは叶わず、いつしか与えられるだけで、なにも制作に関与しない。こんなことで結果ダメになったら自分たちの存在感はないよな、という思いが募り、4枚リリースして、その夏(85年)すごく売れているときに、運営側にはなにも相談せず、メンバーと話して「もう俺たち辞めるから」となりました。僕は性格的に言い出したらきかないことを周りは知っていたので。

でも、これで解散になったらファンに失礼だということになり、最後に1枚(5枚目ラストアルバム)を制作して、年内のツアーで解散しました。今話したことを全部明らかにしたのは数年前でした。周りのひとたちも理解してくれました。

メンバーとは、「オメガは解散しても、前身の“きゅうてぃぱんちょす”は解散していないよ」と話していました(笑)。

その後、藤田氏は85年以降、ブラックコンテンポラリーを次のオメガトライブに求めて、カルロス・トシキをリードヴォーカルに据えて16ビートの音楽を作っていましたね。

——それでソロ活動に?

杉山 僕は全部なくなると思っていただけで、なにも考えていませんでしたね。またメンバー募ってバンドでも結成しようかぐらいの気持ちで、計画などは立てていなかったです。ソロになるなんて思ってもみなかったですね。

ソロになるのは、むしろ周りからの発案で、レコード会社、事務所からのオファーがあり。なにか契約でもあったのかな?(笑)それでソロ歌手としてスタートしました。昔を引っ張らないで、自由にやりましたね。サウンドはアレンジャーに任せて、楽曲作りが面白くて、いろんなメロディが湧いてくるし、充実していました。時代も変わり、もっと環境も含めてやりたいことをやろう、自分の好きな音楽に浸っていたいと思い、レコーディングでたびたびLAに行っていたので、LAに行くつもりでした。

ところが、その頃のLAの音楽事情がラップ全盛の時代で、ラップミュージシャンがスタジオを買いまくり、暴動も絶えない状況。これは違う、もっと平和がいいと思い、それならハワイに行こうと考え、オアフ島に住居を構えました。日本とハワイを行き来する生活でした。仕事に必要なグリーンカード(アメリカ永住権)も取得して、結局1990年から2006年の約15年間、ハワイで音楽生活をしていました。

ハワイでの生活は、目から鱗でした! ワイキキ東海岸から車で20分くらいの山のほうに家がありました。なにがいいって、身近に音楽がいつもあり、普段の生活の中で、プロじゃなく、人が普通に人と語り合うように音楽と接している生活がとっても居心地がよく、素晴らしい環境でした。今は鎌倉に住んで13年になりますが、またできたらハワイに住みたいですね。

——時代とともに、音楽的に変わったこと、変わらないことはありますか?

杉山 変わらないことは、夏海のイメージは常にありますね。夏に生まれたので、夏が好きで。どの作品もそれを自然と意識してできます、生まれ育った環境もありますね。

変わったといえば、2016年の作品で当面、セルフプロデュースを止めました。作品など、「目標としていたものが完成したな」といままでの作品を聴きなおして、そう思いました。これからはそうじゃないことをしたいと思い、プロデューサーと作家を立てて、作品づくりを行なっています。

——これからの音楽活動を教えてください。

杉山 自分のライフワークとして毎年、ある期間、週末にアコースティックライブをやっています。オメガの時代、そしてソロになってからの作品を、アコースティックギターと時々はピアノで行なっています。バンドとしても活動し続けたいし、杉山清貴&オメガトライブとして今年の日比谷野音(日比谷公園大音楽堂)で2回目になります。

2020年の春頃に新作を出す予定でいます。それに向けたツアーはまだ考えていません。

The open air live “High & High 2019”(BD)
杉山清貴&オメガトライブ
2019年12月11日(水)発売

デンソーテンのイクリプスCR-1を聴いて

——普段、どんな音楽を、どんなリスニング環境で聴いていますか?

杉山 音源は基本なんでも聴きますが、やっぱり洋楽が多いかな。ソフトは音楽配信だったりCDだったりアナログだったり。基本は洋楽中心ですね。70年代から80年代前半のアメリカンロックをよく聴きますね。あとビートルズはよく聴きます。アウトテイクものがたくさん出ているし。

聴く環境は、アナログ盤のときは、対峙する、オーディオと向き合っています(笑)。CDのときは、“ながら”ですね。子どものときからの習慣なのかな。ヘッドフォンはだいたいが映像のときに使います。

——デンソーテンの聴いての感想を聞かせてください

杉山 デンソーテンのイクリプスを聴いて、いままで持っていたスピーカーは片付けました(笑)。

なんだろう、なんかほっとする。耳なじみがいいですよ。僕はスタジオで聴くことが多くて、それが一番ナチュラルで加工されていないからいいです。

イクリプスもなにか突出していなくてナチュラル。聴いていて安心感がありますね。制作した人の意図とか、制作したときの空気感がすごく自然に伝わるし、寛げますね。

——オーディオを聴くときにどこに注目しますか? どこを気にして聴いているのでしょう?

杉山 ドラムのサウンドを大事にしています。だからドラムをしっかりと聴きます。その鳴り具合が気になりますね。ビートルズの音がすごいし、うまい。リンゴ・スターのドラムは大きな存在ですよ。ドラムがしょぼく聴こえるとダメです。

ザ・ビートルズのトップトラック

僕はアメリカンロックが好きで、先ほども話しましたが、LAに住みたかったぐらいですから。そうです、がんがんドラムがいく、例えばバンドでいうと、グランド・ファンク・レイルロードは最高ですね。あとベッグ・ボカード&アピスですね。

グランド・ファンク・レイルロードのトップトラック

ベッグ・ボカード&アピスのトップトラック

杉山清貴セレクト イクリプスCDR1で聴きたい! この3枚

『Omega Tribe Groove』
最先端のデジタル録音がふくよかでエッジのきいた音で再現される。

芳野藤丸『What’s Up』
藤丸さんのセルフカバー。生音にこだわった厚みのある重低音、ソリッドなギターの音が気持ちいい。

『Kathmandu Moon』
ネパールのスタジオでサックス、シタール、ベース、ドラム、キーボードで録音された音が、目の前で演奏されているような、ネパールの匂いが感じられる音。

杉山さんのご自宅に置かれたイクリプス。
聞き手・文
大谷隆夫
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大谷隆夫 音楽之友社 編集部担当常務取締役

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