マーラーの音楽には永遠の真実を語っている瞬間がある!?~広瀬大介が語る克服方法
作曲家の中でも大好きと苦手に分かれがちなブルックナー、ワーグナー、マーラー。ONTOMO編集部員の苦手派のメンバーが、この3人の作曲家を愛してやまない音楽学者の広瀬大介先生に、苦手克服のヒントを教えてもらいました。
ブルックナー、ワーグナー、マーラー。好きな人はとことん好きだが、ニガテな人にはとことん拒絶されがちな大作曲家の御三家。ニガテ組のONTOMO編集部員が、広瀬大介先生に「どこがいいのか教えてほしい!」と本気でぶつかるこの企画。3人目はいよいよマーラーの登場です。
マーラーの音楽の“気持ち悪さ”について語ろう
飯田 さて。マーラーです。今回もまずはニガテなポイントや理由から、語っちゃってください。
編集部M 私はマーラーは好きなほうなので、今回はお役に立てないかもしれません(笑)。アマチュア・オーケストラに参加していて、マーラーの交響曲第1番、第5番、第9番を弾いたことはあります。演奏してみたら気持ちが良くて、好きになりました。ただ、あるとき5番を客席で聴いたときに、「聴いてる人のこと全然考えてくれてないのでは?」って感じてしまって……少しニガテになりましたね。
広瀬 なるほどね。弾いて好きになったのに、やっぱりニガテに戻っちゃった。レアケースですね。
編集部M 結婚相手のアルマが「彼は独りよがりだ」みたいなことを書いていて、そういうものを読むと、曲にも独りよがりなところが表れている気がして。
飯田 これまた著作や評伝が邪魔しているケースですね。
広瀬 アルマのことはあまり気にしないほうがいいです。盛りに盛りまくったエピソードが多いので、7割差し引いて読んだほうがいいです。
編集部K 7割も!(苦笑) 私はマーラーの歌曲は好きなのですが、器楽曲がニガテです。なんだか薄気味が悪く……。彼は自分が「三重の意味で故郷がない人間だ」と、出自についての悩みを語っていたようですが、そのあたりが出ている感じがして。
広瀬 それはよくわかります。
編集部K 歌曲や、中国の詩に基づいた《大地の歌》などの歌の表現は大好きなんです。でもシンフォニーになると、彼のウジウジした悩みを見せつけられている感じ。それが、なんとも気持ち悪いというか……。
マーラー:《大地の歌》
広瀬 交響曲でいちばん気持ち悪いと思うのは何番ですか。
編集部K 第5、6、7番あたりです。
広瀬 第1〜4番は聴けるかんじですか?
編集部K 聴けます、聴けます。
広瀬 なるほど、それは、おっしゃることに整合性ありますね。第1番から第4番までの交響曲は、歌曲の旋律を引用したり、そのまま使ったりしています。その時期までの交響曲は、マーラーの中で歌曲と交響曲の創作が完全に分離されていなかった。どちらかといえば一体化していたとも言えます。そのあと、アルマと出会った頃から、そんなハイブリッドな様式から離れ、純粋な器楽曲としての様式を模索していった。4番と5番の間には、大きな断絶があると私は思っています。
飯田 Before アルマ、Afterアルマ、ですね。
編集部K いちばん好きなのは4番。美しく心地よい。最高にニガテなのが5番。スケルツォなどはもう、露悪的な気がして。なぜそれを他人に晒け出すのかな……と。
マーラー:交響曲第4番
飯田 マーラーのスケルツォの、あのヒャッヒャ、ヒャッヒャいうような音響が、私は怖いですね。嘲笑うようなあの音響。「何かに嘲笑われちゃってるオレ」を見せられているような、あの感じ。ショスタコーヴィチのスケルツォともまた違う。
編集部K わかります。ショスタコーヴィチのは、「君たち! これは問題だぞ!」と語りかけてくる感じ。でもマーラーは「全部私の問題なんです」みたいな。こちらに語りかけてくる感じではない。
飯田 それでいて、「虐げられている俺、どう?」みたいに晒してくる感じというか……。
編集部K ガラスばりの部屋で、裸で踊っているところを見せられているような。想像するとちょっと震えますね。
編集部M あ、だから、自分で演奏しているぶんには大丈夫なんですよ。気持ちがいい。でも見る側に回っちゃったとには、ちょっと……となる。
広瀬 う〜ん…なかなか反論できないな(苦笑)。そう感じられるところはあるなぁと、妙に納得してしまった。ただ、私は“気持ち悪い”と思ったことはないんですよね。だって、作曲家なんてみんな多かれ少なかれ、自己顕示欲丸出しの人たちだし。
「こんな俺」を露出するのはR.シュトラウスの影響?
広瀬 おっしゃることはよくわかります。とくに6番、7番あたりになると、「自分」を主題に据える部分が出てきますよね。私は、同時代のリヒャルト・シュトラウスを中心に研究していますが、《英雄の生涯》とか《家庭交響曲》とかは、作曲家自身が作品の主題になってますよね。
マーラーの5番以降の交響曲は、シュトラウスのそうした交響詩の影響を受けているんじゃないかと思うんです。「なるほど、そのテがあったか」と。自分の「素」を晒け出して、音楽の中に溶かし込むことで、ある種の普遍性を持った作品として機能しうることに気がついたのではないかと。
マーラーの7番の交響曲と、シュトラウスの《家庭交響曲》って、編成や構成がすごくよく似ているんです。お互いに影響を与えていたかもしれません。あまりみんな言わないんですけど。
それが、5番以降マーラーが「気持ち悪く」なっちゃった理由のひとつとして、あげられそうです。
それが、5番以降マーラーが気持ち悪くなっちゃった理由としてあげられそうです。
マーラー:交響曲第7番、R.シュトラウス:《家庭交響曲》
編集部K 《英雄の生涯》みたいに自分をテーマにするなんて、本来だったらものすごく“気持ち悪い”はずなのに、シュトラウスの場合は客観的な目線を感じます。なのでそうは感じない。なぜマーラーは……。むしろマーラーのほうが、「ここはアルマを表現してます」「これは俺です」とか説明しているわけではないのに、なんだか伝わってくるものがある。滲み出る自己顕示欲。
編集部M う……。
広瀬 例えば、交響曲第6番の第1楽章の第1主題はマーラー自身、第2主題はアルマですね。で、最後に自分がハンマーで打ち倒されて死んでしまう。マーラー自身はそんなに不幸せではなかったはずなのに。
奥さんが不倫してるかもな、と感じ始めたのだって、9番とか10番のころ。自分の死を予見して書かれたのではないか、と言われたりするけれど、実際にはそんなことはなかったようです。必要以上に、自分を「悲劇の主人公」っぽく仕立てようと演出していたところはあったかもしれないですね。
マーラー:交響曲第6番
飯田 それはやっぱり時代の感覚というか、ロマン主義思想や、世紀末の厭世的な価値観だったりするんでしょうか。
広瀬 そういう流行りに乗った部分もありますよね。割とマーラーって、歌曲を作るときも、詩そのものを尊重するというより、自分で手を加えて書き換えたりもして、どちらかという自分に引き寄せて解釈しようとするタイプ。自我が強いと言えるかも。どうもあまり、フォローになってないなぁ(苦笑)
編集部M ブルックナーやワーグナーに比べると、あまりフォローになってないような……マーラーへの愛がちょっと……(笑)。
広瀬 足りてないですかね? いや、そんなことないですよ。私がマーラー作品の中でいちばん好きなのは《大地の歌》なんです。晩年になって再び取り組んだ、交響曲と歌曲のハイブリッド作品。これはほんとうに大傑作だと思うし、いつか本を書きたいくらい。とはいえ、第6楽章は長すぎると感じられるかもしれませんね。1〜5楽章までを足したくらいありますし。その長さもまたいいんですが(笑)。
編集部K 1日に1楽章聴くのがやっとです。
広瀬 それ以上はオーバードーズみたいなね(苦笑)。
編集部K 早く致死量に到達してしまう(苦笑)。
広瀬 ブルックナーは提示部が長いのですが、マーラーは展開部が長すぎる。いろいろ詰め込みすぎ。迂回もするし、新しいエピソードぶっ込んだりするし、突然カウベルがなっちゃったりするし。ただし、ダサいと感じられる瞬間はない。どこも洗練されています。
飯田 長いけれど、どこも洗練されているから、マーラーの音楽はどこから聴いてもいいのだ、みたいな論調で語られていたこともありましたよね。90年代くらいに。第1主題、第2主題と構築的に聴かなくてもいいんだ、みたいな。
広瀬 そういう受け止められ方がなされるようになったのには、バーンスタインの影響はあるでしょうね。「マーラー聴いて気持ちよくなろうぜ!」みたいな、バーンスタイン流の“マーラー・ルネッサンス”を主導したようなところがありましたから。もっとも、聴き手にとっては、マーラーを聴いているというよりは、マーラーを愛するバーンスタインを聴いている、みたいなところもあった気がするけど。
シューマンとの共通項〜分裂的な音楽とその美
広瀬 ところで、みなさんがおっしゃる「気持ち悪さ」や「得体のしれなさ」というのを、私はシューマンの音楽に感じるときがあります。
飯田 突然のシューマン批判(笑)。
広瀬 精神的に危ういところがあって、話していて突然まったく違うところに行ってしまうような。私は残念ながら、そういうヤバさを持ち合わせない凡人なので、う……とシャッター降ろしちゃうところがあります。マーラーにも、時々ありますね。この人、ここでちょっと精神的に迷ったんだなと感じる。どうですか、そういうシューマンとマーラーの危うさの共通性には、共感してもらえますか?
編集部K 私はシューマンにはものすごくシンパシーを感じます。
広瀬 第2番の交響曲、第2楽章の最後で、突然(精神の危うさを示す)ラッパが鳴っても?
編集部K 全然大丈夫です。ピアノ曲もよくわかる気がします。《謝肉祭》なんて、本当に気持ちがいい。自分も「ヤバい人間」だとアピールをするわけではないのですが(苦笑)。シューマンは可愛らしさや潔さも感じられるんです。
シューマン:《謝肉祭》
広瀬 知識として理解できるんですが、入り込めないんですよね。
飯田 実は、私も20〜30代の頃、理解はできても共感できず、マーラーに感じるのと同じ怖さをシューマンにも感じていました。それが今つながりました。分裂的な、バラバラ感が怖いんです。
広瀬 マーラーの音楽は、バラバラにされたそれぞれの楽節に、永遠の真実を語っている瞬間があるように思うんです。後世のベルクやショスタコーヴィチのような繊細な作曲家は、それを引用してあとで使うわけじゃないですか。
後世に与えた影響という意味においては、マーラーはシュトラウスより遥かに上でしょうね。マーラーはすぐ死んじゃったから余計にそう感じるのかもしれないけど。20世紀音楽を語る際に、あらゆるジャンルにおいて、マーラーの影響を考えずに語ることって、多分できないと思うんです。
作品の一瞬一瞬に美しさが宿っていて、それを切り出して使われることは多いですよね。5番のアダージェットとか。ただ、マーラーの作品世界全体がどういうものなのか、を正面から語られることは、あんまりなかったような気がします。
しかもマーラーはユダヤ人ということで、戦前戦中でドイツ語圏での演奏文化がいったん途絶えてしまったのもおおきいと思います。
しかし、世紀末ウィーンの同時代人たちの間では、共感・共有されていたポイントはあったはず。たとえば、フロイトの精神分析的な考え方を、音楽にするとこうなるんだ、みたいな。マーラーの音楽は、同時代のひとが聴けば「ああ、あれね」みたいな感じでピンとくるものであったのではないかなあ、と。
飯田 その、マーラーとフロイトの精神分析の話は、よく一緒に語られたりしますが、どういうことなんですか?
広瀬 フロイトはすべての夢にはこういう意味があるんだよ、と落とし込んでいく作業をした。それまでモヤモヤしていた、不安な気持ちとか、性欲などを、言葉で定義づけていった。現代から見れば、ちょっと恣意的なところはあると思いますけどね。それを音楽の形で並べていくとこうなるんだ、みたいにマーラーは提示しようとしたと考えられたわけです。“世紀末ウィーン”と呼ばれる文化サークルの中での共通理解です。
飯田 「世紀末ウィーン」「精神分析」などのタームも、マーラーの音楽の周辺でよく見られるので、そうした文化的教養を持っていないと楽しめないと言われている気にもなります。
広瀬 それは、マーラーの音楽を聴いて興味が出たら、あとから自分で本読んだり、絵を鑑賞したり、自分で補えばいいのでね。それを知らなければマーラーの音楽が楽しめないとかでは絶対にないです。先に語ったブルックナーやワーグナーにも言えることですよね。
最初に戻りますが、ブルックナー、ワーグナー、マーラーはそれぞれ、誰の音楽にも似ていない。ブルックナーはシューベルトの影響を受けているとは思います。同じウィーン人だし、素朴だし。ワーグナーも、当時のフランスのグランド・オペラを作っていたマイアベーアやウェーバーの影響も受けている。マーラーは、あらゆる音楽にルーツをたどれるし、ブルックナーの影響も受けている。ただ、3人ともそれぞれ多様な寄せ集めが一つの圧倒的な個性によってまとめられていて、誰から直接影響を受けたか、すぐに判別するのは難しい。
パッと聴いて、自分の耳に馴染みのない音楽にどうしても聞こえがちなので、そこがハードルの高さの大きな原因だと個人的には思うんです。
編集部M 一度聴いて「この人ムリ」と思っても、そのときはそっとしておいて、ふと数年後に聴いてみるのもいいのかも。
飯田 それで急にわかり合えたりすることもありそう。聴ける音楽の幅は、人の経験値とともに変わりますしね。奏者の違いや演奏のトレンドもありますから、無理しなくていいと思う。
編集部K わかりえない音楽があってもいいですよね。身も蓋もないことを言うようですが。ただ、いろんなヒントをいただいたので、今トライしたらアリ! というのもありそうです。
編集部M 広瀬先生にいろんなエピソードや考え方、聴き方を示していただいたので、興味は湧いてきました。ありがとうございます!
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