連載
2025.07.23
ハプスブルク帝国の音楽世界 第8回

エステルハージ家が育てた音楽家たち~ハイドンからモーツァルト、リストまで

近世ハプスブルク君主国史が専門の歴史学者・岩﨑周一さんが、ハプスブルク帝国の音楽世界にナビゲート!
第8回は、ハプスブルク帝国屈指の名門貴族・エステルハージ家と音楽家の関わりに注目! モーツァルト、ショパン、ベートーヴェン、リスト、シューベルト……多くの作曲家と関わりを持ちましたが、なかでもハイドンはこの一族のもとで30年にわたって楽長を務め、創作人生の大半を共にしました。

岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

1808年のハイドン《天地創造》演奏会
前列中央で腰かけているのがハイドン。その左手でショールを持ち、腰をかがめているのがエステルハージ・マリア。なお、ハイドンのすぐ真後ろに立っているのはサリエリ、その後ろに立ち並ぶ男性たちの3番目はベートーヴェン

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ハプスブルクと歩んだエステルハージ家の400年

ウィーン・フィルの常任指揮者への就任を打診されたとき、ヘルベルト・フォン・カラヤンは背後の壁を叩きつつ、こう言って断ったという。「あなた方のそのデモクラシーでもって、あとになって別の決定を下さないという保証は、誰がしてくれるんですか? ベルリンは私が寄り掛かることのできる壁なのですよ!」

ヨーゼフ・ハイドンにとって、雇用主のエステルハージ家はまさしくそのような「壁」だった。宮仕えの身を「奴隷のようなもの」と自嘲気味に語ることもあったが、ヨーロッパ中に名声が広まった後も、彼はエステルハージ家の宮廷楽長の地位に終生とどまった。ハンガリー第一の名門貴族の下で得られた安定—通算49年、実勤30年弱—に支えられて、ハイドンはあの壮大な業績を残したのだった。

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中世のハンガリーにおいて、エステルハージ家はまだ中レベルの貴族だった。飛躍の足掛かりをつかんだのは、16世紀後半のことである。近世のハンガリーでは親ハプスブルク派と反ハプスブルク派が絶えず衝突していたが、エステルハージ家はおおよそ前者に属し、それが一族の繁栄につながった。

とりわけ17世紀後半、ハプスブルク帝国がハンガリー領の大半をオスマン帝国から奪還して領土を拡大するのと軌を一にして、エステルハージ家も勢力を拡大した。領地を増やしてハンガリー最大の貴族となり、国外への進出も開始したのである。ハプスブルク帝国全域を見渡しても、その勢威に比肩できた家門はわずかしかない。

なお、エステルハージ家は今日でも健在で、2023年の時点でオーストリア第3位の土地所有者であるほか(ちなみに「旧主」のハプスブルク家は第11位)、現代ハンガリーを代表する作家エステルハージ・ペーテルを輩出するなど、旧ハプスブルク圏を中心にその勢威を保っている。

ハイドンを育てた「壮麗侯」~音楽と贅の美学、そして別れの交響曲

18世紀、エステルハージ家の人々は典型的なハプスブルク貴族の道を歩んだ。彼らは総じて主家への忠誠心を強く抱き、地位に安住することなく学業に勤しみ、ヨーロッパ各地への遊学などを通して自己研鑽を重ねた。そして政治家ないし軍人として国家に奉仕するだけでなく、所領経営にも手腕を発揮したのである。この研鑽の中には、学芸文化に幅広く親しむことも含まれる。ハイドンの楽才は、このような素地の下で見い出されたのだった。

ハイドンが主に仕えたニコラウス(1世)は、軍人としてのキャリアを歩み、七年戦争における戦功によって元帥に任ぜられた。その派手好みから「壮麗侯」と綽名され、1764年にマリア・テレジアの長男ヨーゼフのローマ王戴冠式がフランクフルトで催された際には、諸侯がこぞって贅を競う中で、ひときわ華々しいパビリオンを設けた。これは若き日のゲーテに圧倒的な印象を与え、「妖精の国」と絶賛されている。

ニコラウス1世

またニコラウスは、オーストリアとハンガリーの境に位置するノイジードラー湖の南端にあった狩猟館を「エステルハーザ」とよばれる豪奢な離宮に大改装し、好んで滞在した。これに辟易した楽員たちのため、ハイドンが「交響曲第45番《告別》」の終楽章で楽員が次々に舞台を去る趣向を盛り込んだ話は、ご存じの方も多いだろう。ハイドンはこの侯を「優れた識見を有する情熱的な音楽愛好家」「良い主君」と讃えた。

ハイドン:交響曲第45番《告別》

エステルハーザ
「エンパイア・サール」は現在もコンサートやレセプションに使われている

ロンドンで過ごしたハイドンの最晩年

このニコラウスが1790年に没したのち、後継者のアントンは音楽活動を大幅に縮小したが、ハイドンは楽長の座を名誉職として保持した。この機会に彼は2度訪英し、12曲の「ロンドン交響曲集」を始めとする多くの輝かしい成果を残すことになる。アントンの早世後に当主となったニコラウス(2世)は、ナポレオン戦争時に私財を投じて戦い、ナポレオンからハンガリー王の座を打診されても拒絶して、ハプスブルク家への忠誠を貫いた人物である。

音楽への関心も強く、楽団と劇場を復活させたほか、夫人マリア・ヨゼーファ・ヘルメンギルデともども、老衰に苦しむハイドンの最晩年の生活を支えた。ハイドンが最後に公の場に現れたのは、1808年3月27日に催されたオラトリオ《天地創造》の演奏会だが、このとき隣に着席した彼が寒がる様子を見たマリアは、自分のショールを差し出して老作曲家を温めたという。

ハイドン:オラトリオ《天地創造》

モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、リスト、シューベルトとも関わったエステルハージ家

ハイドンのときほどの強い関係は生まれなかったが、エステルハージ家の名は他の形でも頻繁に音楽史に登場する。モーツァルトはニコラウス(1世)のいとこにあたるヨハンの邸宅でしばしば演奏会を開き、同族のフェレンツ(クロアチア太守兼ハンガリー国務庁長官)の死を一因として、《フリーメーソンのための葬送音楽》K. 477を作曲した。

モーツァルト:《フリーメーソンのための葬送音楽》K. 477

ベートーヴェンは《ミサ曲》op.86、ショパンは「即興曲第3番」op.51などを通じて、この一族と関わりを持った。リストはエステルハージ家の従僕だった父を持ち、9歳で開いた生涯最初のコンサートを同家の邸宅で開いている(1820年)。少年の才能を認めたニコラウス2世らの後援により、リストは最初の音楽教育をウィーンで受け、チェルニーやサリエリから学ぶことができた。

ショパン:「即興曲第3番」op.51

また、シューベルトは1818年と24年の二度にわたってエステルハージ家に招かれ、その音楽活動を差配した。ここで彼は同家の令嬢カロリーネに対し恋心を抱いたと言われるが、二人が結ばれることはなかった。没後にその遺志によって彼女に捧げられたピアノ連弾曲の「幻想曲」(D940)は、シューベルト晩年の傑作のひとつである。とてもいい曲だと思うが、あまり聴かれていないようなのが残念だ。

シューベルト:「幻想曲」D940

モーリツ・フォン・シュヴィント《シューベルティアーデ》
(1868年、ウィーン市立博物館蔵)
岩﨑周一
岩﨑周一 歴史学者

1974年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。現在、京都産業大学外国語学部教授。専門は近世ハプスブルク君主...

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