ロバータ・フラックといえば1973年にラジオで毎日何回も耳に入った「Killing Me Softly」だが初期のアルバムの素晴らしさに注目したい
ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。
Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。
●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2025年5月号に掲載されたものです。
ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...
イージー・リスニングに近い印象で関心がなかった
年と共に音楽の捉え方も好みも変わってくることは当たり前な話かもしれません。男性ホルモンが暴れまくっていた10代、家族中心の生活になった40代、現在の70代、人生経験と聴いたもの、読んだものの蓄積によって理解が広がって、かつてさほど関心がなかったものも楽しむようになったのです。
2025年2月に88歳で亡くなったロバータ・フラックは、人気のピークだった1970年代には、決して嫌いではなかったものの、何となくイージー・リスニングに近い印象があって、もっと明らかにエモーショナルなソウル・ミュージックが好みだったし、むしろ彼女のデュエットの相手だったドニー・ハサウェイのファンでした。
彼女のレコードも、ベスト盤しか持っていなかったと思いますが、CDの時代になって過去の作品を少しずつ聴くようになったら彼女の音楽の魅力を徐々に感じるようになりました。そして亡くなった後の死亡記事を読むとその背景がとにかく面白いのでここで紹介します。
ニーナ・シモーンとの共通点はクラシックピアノ
ニーナ・シモーンといくつか共通点があります。2人とも1930年代のノース・カロライナ州で生まれ、クラシックのピアニストを目指していました。そして南部の人種差別のためにその目標には達することができず、ポピュラー音楽の世界に入ったのです。またレパートリーに驚くほど多くのジャンルの曲が含まれていました。
ロバータの場合は1937年に生まれ、幼児のうちに家族がワシントンDCの郊外に引っ越し、いつも通っていた教会の合唱隊でピアノを担当した彼女はゴスペルの歌と平行してクワイアが取り上げるクラシックの曲も子どものころからずっと演奏していました。
15歳で授業料全額が奨学金で賄われる形でワシントンDCにあるハワード大学に入学、10代のうちに卒業しましたが、学部長から黒人の女性はクラシックの楽団での仕事の機会がひじょうに限られるため教育の道に入ることを薦められ、修士号を目指していました。
そこで父が死亡し、生計を立てるためにノース・カロライナ州の貧困地域の公立の学校で英語と音楽を教えていたのですが、ピアノすらない環境で、オートハープを抱えて各教室で子どもたちに音楽を教えていたのです。
1年後にはワシントンに戻り、市内の中学校で音楽を教えながらナイトクラブでミュージシャンとしての仕事を始めました。ある高級レストランでオペラ歌手の伴奏をしましたが、クラブではブルーズもフォークもポップも、何でも歌うロバータは次第にワシントンDCで評判が広がり、無名なのに有名人がわざわざ聴きにくるほどだったそうです。
そのひとりがソウル・ジャズのピアニストとして人気があったレス・ムキャン。ロバータの演奏に圧倒された彼は自分のレコードを手がけていたアトランティック・レコードのプロデューサー、ジョエル・ドーンに紹介すると、40曲以上演奏した3時間のオーディションの末、その場で契約することになりました。
初期のアルバムを聴き直したら実に素晴らしい出来で損をした思い
1969年に発表された「ファースト・テイク」には、彼女の最初のヒットとなった「The First Time Ever I Saw Your Face」が収録されています。イギリスのフォーク・シンガー、ユワン・マコルによるこの曲をロバータは超スロー・テンポで歌っています。
全体的にジャズ寄りのアルバムの中で当時どのように聴かれたかは推測するしかありませんが、最初は話題にならず、結局2年後にクリント・イーストウッドが監督デビュー作の映画「恐怖のメロディ」(原題Play Misty For Me)の長いラヴ・シーンのバックでこの曲を使ったことでいきなり注目され、シングル盤で発売されたら大ヒットとなったのです。
同じアルバムの冒頭に収録されている「Compared To What」はロン・カーターが弾くファンキーなベイス・ラインから始まります。その後長きにわたってロバータと縁を持つようになるユージーン・マクダニエルズが作った一種のプロテスト・ソングで、レス・ムキャンが最初に録音したのですが、ロバータのアルバムが出た翌日にモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに出演したレスとサックス奏者のエディ・ハリスのライヴ・ヴァージョンはジャズ界の異例のヒットとなりました。
他にもレナード・コエンの曲も取り上げ、人種差別や貧困などをテーマとした1948年のメキシコの映画「黒い天使」の主題歌も歌っています。そしてハワード大学で自分より8歳年下の学生仲間だったドニー・ハサウェイの曲を2曲歌っています。リアル・タイムでこのアルバムを聴いていたらきっとロバータ・フラックの印象がだいぶ違っていたかもしれません。
ロバータ・フラック「ファースト・テイク」
しかし、個人的な話ですが、「恐怖のメロディ」を見たのは日本に来た後の70年代半ばで、ロバータの最初の印象といえば1973年にラジオで毎日何回も耳に入った「Killing Me Softly」が圧倒的でした。かかりすぎということもありますね。
ラジオで特集するに当たって初期のアルバムを聴きなおしたら実に素晴らしい出来で、損をした思いでした。今考えると3作目「Quiet Fire」のタイトルが彼女の個性をもっとも適確に表していると思います。
最後のアルバムとなった2012年の「Let It Be Roberta:Roberta Flack Sings The Beatles」は久し振りの力作でした。あまりにも馴染み深いレパートリーにもかかわらず、多くの楽器を担当し、ロバータと一緒にプロデュースしたシェロッド・バーンズの気の利いた編曲でとてもカッコよく仕上がっています。お薦めです。
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