連載
2025.10.27
【Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画】ピーター・バラカンの新・音楽日記 41

早世したニック・ドレイクの素晴らしい世界に迫る『The Making Of Five Leaves Left』

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。

●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2025年10月号に掲載されたものです。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

イラスト:酒井恵理

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流行らないまま地道に活動を続けるミュージシャン

プロのミュージシャンというのは、当然のことながら、多くの人に認められ、商業的な成功を収めたい気持ちがあるはずです。しかし、売れてしまったらいろいろなプレッシャーがかかります。レコード会社はヒットしたのと同じような曲を要求します。さまざまなメディアから取材の依頼が殺到したり、殺人的なスケジュールのツアーをこなす羽目になったり、急に自分のプライヴァシーが消えてすべての言動が過剰に注目されたり、「有名税」というものはそうとう辛いだろうと思います。

でも、逆にとても才能があるのにどういうわけか流行らないまま地道に活動を続けて何とか食いつなぐミュージシャンもいますし、やめてしまう人もいます。

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ニック・ドレイクはその一人でした。1969年にレコード・デビューし、1974年に抗うつ剤の過剰摂取のため26歳で死亡した彼は生前に3枚のアルバムを発表し、どれも売れませんでした。亡くなった後に少しずつ彼の音楽に魅力を感じる人が増え、特に彼に影響を受けたというミュージシャンもいました。そして1972年に出た彼の最後のアルバム『ピンク・ムーン』のタイトル曲が1999年に、アメリカでフォルクスワーゲンの印象的なテレビ・コマーシャルに使われたことで、にわかにニック・ドレイクがちょっとした人気者になりました。

ニック・ドレイク『ピンク・ムーン』

デビュー作の制作プロセスがわかるボックス・セットが登場

「人気者」は若干言いすぎかな。でも、トリビュートのコンサートが開催されたり、特にジャズのミュージシャンが彼の曲を取り上げたり、生前に比べたら遥かに注目度の高いシンガー・ソングライターとして認識されています。

そのニック・ドレイクが21歳のときのデビュー作『Five Leaves Left』の制作につながるプロセスが分かる4枚組のボックス・セット、『The Making Of Five Leaves Left』が発表されました。

当時売れなかったこのアルバムには、珠玉の楽曲が詰まっています。ニックは、19歳でケインブリッジ大学に入学した直後から英文学の勉強や大学ライフにはあまり興味はなく、もっぱら自分の部屋で本を読んだりギターを弾いたりしていたというのです。1967年の12月に、ニックの友人が企画したフォーク寄りのイヴェントがロンドンのがらんとしたラウンドハウスという会場で開催され、イギリスで初めて演奏するカントリー・ジョー&ザ・フィッシュを筆頭に、ニックが憧れるギタリストのバート・ヤンシュとジョン・レンボーンも出演するこの “ハプニング”に、まったく無名のニックも参加することになりました。

そのとき会場にいた一人、間もなくデビューするフェアポート・コンヴェンションのベイシスト、アシュリー・ハチングズは、ニック・ドレイクの存在感に打ちのめされました。

フェアポート・コンヴェンションは、ロンドン在住のアメリカ人のプロデューサー、ジョー・ボイドの制作会社に所属していたのですが、アシュリーはどうしてもこの新人のことを彼に伝えたかったと言います。前にも後にもそんなことをしたことはなく、このときだけ特別だったそうです。

ジョーはニックに連絡をとりました。簡単なデモ・テープを持ってきたニックは、背が高く、ルックスもいいけれど極めてシャイな人で、ほとんどしゃべらずにテープだけ置いて帰りました。シンガー・ソングライターには今一つ興味がなかったジョーは、それとなくテープをかけると、冒頭の曲「Time Has Told Me」に衝撃を受け、立て続けに3回聴いたというのです。再びニックをロンドンに呼んで、アルバムを作りたいと伝えると、ニックも喜んでケインブリッジに戻ります。

今も古さを感じない『Five Leaves Left』

ジョーは、当時話題になっていたレナード・コエンのデビュー・アルバムと同じように、ストリングズなどの編曲を施したいと言ったので、ニックが大学の仲間にそんなことができる人はいないか尋ねた結果、紹介されたのがロバート・カービーという若者でした。

クラシックも学んでいたロバートは、ニックのギターの技量にノック・アウトされました。複雑なチューニングも使っていて、ギターの演奏に対位法を取り入れる人は他にいなかったと語っています。ニックはロバートにレコーディングのことを伝えず、またジョー・ボイドにはロバートのことを伝えていなかったので、ジョーは別の編曲家を手配していましたが、その人の編曲はうまくいかず、ジョーもニックも不満でした。そこでニックがロバートのことを初めて切り出しましたが、ジョーは誰も知らない学生に対して最初は懐疑的だったのです。

ニックのセッションは散発的にゆっくりと進み、1968年の春から69年の春までかかりましたが、結局ロバート・カービーの編曲が皆に大好評で、ニックもジョーも大満足のアルバムが出来上がりました。

ところが、できた作品のプロモーションについて、ニックはちっとも協力的ではなく、インタヴューではほとんど言葉を発しないし、ライヴは滅多にやらないし、契約したアイランド・レコードとして極めてやりづらい状況でした。ニックは自分の音楽に対して自信はありました。ただ、その音楽を人に聴いてもらうためにやらなければならない作業は彼にとって苦痛だったわけで、結果的に売り上げは惨憺たるものでした。

『Five Leaves Left』は50年以上経った今聴いても全然古い感じがしないほど曲が素晴らしいです。この『The Making Of ……』で聴くのもとても興味深いですが、まず配信でもオリジナルのアルバムはぜひお薦めします。

ニック・ドレイク『Five Leaves Left』

ニック・ドレイク『The Making Of Five Leaves Left』

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

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