バッハの受難曲は、こうした「痛み」のようなものを外面的に表わすというより、それをつねに内面へ、そして赦しへと転化させていく音楽だ。

たとえば、時代は少し新しくなるが、同じように受難をテーマにした、パイジェッロのオラトリオ《イエス・キリストの受難》のようなはなはだしく外面的な作品と比べると、その違いは著しい(オペラみたいで面白い曲だけれど)。

「痛み」のようなものは、官能性へとも繋がっていく。たとえば、最後の晩餐で、死を予感したイエスがパンは自分の身体であり、ワインは自分の血だと述べる部分(第11曲)だ。バス歌手によって歌われるこのイエスのレチタティーヴォは、どこかエロティシズムの香りが漂う。そのあとのアルトによる警句的なレチタティーヴォ・アッコンパニャートやアリア「この心をあなたに捧げよう」(第13曲)では、オーボエ・ダモーレが活躍。バッハは、この楽器の官能的な響きを引き出す音楽をそこに置いたのだ。

《マタイ受難曲》第11曲  レチタティーヴォ

《マタイ受難曲》第13曲 アリア「この心をあなたに捧げよう」

そこで述べられているのは、パンやワインという日常的なものに、神の愛は遍在するのであり、信じる者の心にはいつも自分がいるよ、というメッセージなのだろう。

《マタイ受難曲》が、わたしたちの心のなかでそれが奏でられる機会をいつもうかがっているように。

鈴木淳史
鈴木淳史

1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...