カルロス・クライバーはどう指揮したか

先だって例に出したベートーヴェンの第九交響曲のケースを考えよう。作曲家は「みな兄弟、諸人抱き合え!」までの過程をコツコツと組み立てる。第1楽章から始まり、長い道のりを経て、そのテーゼを高らかに歌わせる。周到だ。

ただ、このように理路整然な手続きを経て正論を述べられると、逆に警戒してしまうことだってあるのでないか。その点、《こうもり》は強力である。完全に酔っ払った人が、ずっとぐでんぐでんな調子なのに、ちょっとした拍子にさっと気の効いたことを言うと、それが印象深く心に残ってしまうように。あるいは、虚構性があまりにも強い場だからこそ、ふっと真実が漏れ出る瞬間があるといってもよいか。

すっかり油断したところに、ちょろっと意味ありげな言葉を差し挟む。その効果は意外に大きい。《こうもり》は、そういう意味では《第九》より危険な存在になりえるのかもしれない。悪用禁止でよろしくお願いいたします。

ちなみに、この部分をもっとも意識した音楽作りをしているのが、カルロス・クライバーの映像(1986年)だ。テンポを落とし、声部を精妙に重ね、まるで宗教曲のよう。クライバーには、キャストがもっと豪華なドイツ・グラモフォンの録音(1976年)もあるが、そこまで強調はしていない。

―3.50からファルケが乾杯の挨拶をする場面(《こうもり》第2幕第11番フィナーレ)

鈴木淳史
鈴木淳史

1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...