《アルプス交響曲》や《涅槃交響曲》こそ「ザ・年末」

R.シュトラウスの《アルプス交響曲》もいい。こちらもとんでもない大編成だが、あえて合唱などの声楽が入らないことに進歩性を感じて挙げてみた。この曲は、アルプスの自然を描写し、それを讃えるだけの曲ではない。2つの主題は展開を経るが、最終的には止揚せず、もとの主題が同じ変ロ短調で回帰する。時間は直線的に流れるというヨーロッパ的、キリスト教的な考えではなく、時間は回帰するという東洋的な思想が込められている(この作品に影響を与えたのはニーチェだった)。まさに日本の年末そのものにふさわしい。

R.シュトラウス:《アルプス交響曲》

となると、柴田南雄の交響曲《ゆく河の流れは絶えずして》といった作品にも、ビブスを着せてウォーミングアップを始める合図を送ってもいい頃合いになる。鴨長明の「方丈記」をテクストに無常観をテーマにした、さまざまな音楽スタイルが混在する大作だ。

黛敏郎の《涅槃交響曲》だって有力な候補になる。梵鐘の音を分析した響きをオーケストラで演奏するというこの作品は、除夜の鐘が鳴らされるまさにそのときに行なわれるオーチャードホールでのジルベスターコンサート向け。第5楽章は、全山の鐘が一斉に打ち鳴らされる場面だ。さあ、《涅槃交響曲》でカウントダウンだ!

黛敏郎:《涅槃交響曲》

ただ、合唱は声明や読経なので、そのメッセージ性をダイレクトに受け取るのはちょっと困難かも。とはいえ、お経にカタルシスを感じられる人も多いと思うのだけど。

大事なのは、日本での「第九」が担っているもっとも重要な役割。つまり、お祭り的要素である。いや、飲んで騒いで踊れば祭りだっぺ?というのは違う。日本のお祭りには、その信仰のなかに、途絶えてしまった風習を一夜だけ再現したり、志半ばで亡くなった英雄を追悼したり、あるいは理想とするような社会や異文化への憧れといった意味合いも隠されている。つまり、年末の「第九」には、「表面だけは取り入れられているけど、それがきちんと実現していない近代社会」への思いがあるのではないか。

そう考えると、しばらくはやはり「第九」でいいんじゃね?という気もしてきた。あ、ショスタコーヴィチの「第九」で、たまに羽目を外すのも悪くないとは思うのだけれども。

鈴木淳史
鈴木淳史

1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...