《おしゃべりはやめて、お静かに》(BWV.211)
作詩:ピカンダー(本名クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ)(1732)
〔アリア:リースゲン〕
ああ! ほんとうにおいしいのよコーヒーって、なんて甘美
いとしくてならないわ、千回キスされてもああはならない
口あたりがよくて、まるで甘やかなマスカット白葡萄酒のよう。
コーヒー、あたしコーヒーがないとほんとにだめ
そう、もしどなたかがあたしを喜ばせたいなら
ああ! コーヒーをくださればいいのよ!
(訳:白沢達生)
バッハがコーヒーを嗜んでいたのは、彼の遺品に5つのコーヒーポットや食器類が含まれていることからも明らかで、コーヒー愛好家であったことは間違いありません。実際、ツィンマーマンの庭園にあるコーヒーハウスがいきつけの店でした。《おしゃべりはやめて、お静かに》(BWV.211)もしくは《コーヒー・カンタータ》という名前で通っている本作は、バッハ自身のコーヒー好きが現れた作品と言ってもよいかもしれません。
J.S.バッハ《コーヒー・カンタータ》(トラック1~5)
続いて、当時のドイツのコーヒーの状況について記しましょう。ドイツで最初にコーヒーが流行したのは1680年代と言われています。ハンブルク、ブレーメン、ケルン、そしてライプツィヒにコーヒーハウスが開設され、大都市の上流階層を中心にコーヒーが広がりを見せました。その後、コーヒーは北ドイツやザクセン地方を中心に「流行の飲料」として飲まれていきます。18世紀半ばごろまでには上流階級のみならず、市民層や農村部へ浸透していきました。その結果、貴族から庶民、貧民までもが飲む日常飲料となっていきました。
《コーヒー・カンタータ》がツィンマーマンの依頼で書かれた世俗カンタータ(※)で、そのツィンマーマンのコーヒーハウスで初演されたのは1734年頃のようです。昔から多くの人が行き交い、大学都市で知識人や若い感覚の学生も多いライプツィヒでは、コーヒーハウスへの需要も多く、順調にその数を増やし、この頃8軒になりました。ライプツィヒは押しも押されもせぬコーヒーハウスの街として、存在感を高めていったのです。
※世俗カンタータ:典礼での演奏を目的に書かれた教会カンタータに対し、教会外での演奏用に作曲されたカンタータの総称。舞台装置や演技なしで演奏された。J.S.バッハの《結婚カンタータ》《コーヒー・カンタータ》などが名高い。
コーヒーハウスはただコーヒーを飲むためだけの空間ではなく、整った設備と上質な楽しみがもたらされる人々の社交場として機能していました。バッハはその中でもツィンマーマンのコーヒーハウスを本拠として公開のコンサートを開催しています。この公開コンサートはライプツィヒだけの名物で、夏の間はツィンマーマンが所有する庭園で、冬の間は屋内で毎週2時間の演奏会が催され、名物コーヒーハウスとしての地位を確立していきました。
バッハ亡き後、紆余曲折もありましたが徐々にコーヒーがすべての階層の手に戻り――そして代用コーヒーの文化も副産物として生まれたのです――ドイツとコーヒーの結びつきはいっそう強くなっていきました。