ラフマニノフが受けていたズヴェーレフ氏の厳しいレッスン。同じ生徒にアレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービンもいた。この二人の出会いは偶然のようでもあり、また必然のようでもある。
ラフマニノフはズヴェーレフの私設音楽教室から離れて親類の家に転がり込んだが、モスクワ音楽院には通っていた。スクリャービンもすでにモスクワ音楽院で学んでいた。ズヴェーレフの教室からモスクワ音楽院へと場所を変えて再び相まみえたラフマニノフとスクリャービン。
ラフマニノフよりも1年ほど歳上のスクリャービンであったが、見た目の体格からピアノの演奏までラフマニノフとスクリャービンはすべてが正反対であった。生まれた時から病弱で小柄な体格、華奢で小さな手のスクリャービンと、大柄で巨大な手の持ち主のラフマニノフ。この二人がモスクワ音楽院で同じ時期に共に過ごしていて意識し合わなかったわけがない。
しかし、どちらも物静かという以上に寡黙で人見知りで、しかも気難しかった。よくある映画やドラマのように、互いが競い合い称え合うような凸凹コンビの青春物語には残念ながら発展していなかった。
ピアノはラフマニノフが従兄のジロティーのクラスで学び、スクリャービンはサフォーノフのクラスで学んだが、作曲科ではいっしょにタネーエフのクラスで学んだ。
ラフマニノフは圧倒的なピアノ技術に加えて、音楽の創造にも魅力を見出していた。かつてモスクワ音楽院で教えていた尊敬するチャイコフスキーのバレエ音楽や交響曲を研究、そこから習作としてピアノ用に編曲をしてみたり、またチャイコフスキーの初演があると聞けば遠くペテルブルクまで時間を惜しまずに通うなどの熱の入れようだった。すでに「作曲家」という生き方がラフマニノフの視野に入っていた。それは、まるでチャイコフスキーに導かれているかのようでもあった。
ラフマニノフとスクリャービンは共に1891年にモスクワ音楽院を繰り上げ卒業する。卒業時、ラフマニノフはピアノと作曲の両クラスで「金賞」を受けた。2つのコースで金賞を獲得すると「大金賞」と称された。
一方のスクリャービンは作曲ではほとんど成果を残すことができず(真剣に取り組まなかったとの見方もある)、ピアノで「金賞」を受けたのみだった。しかも、同じピアノの「金賞」でもラフマニノフが1位でスクリャービンが2位という結果だった。モスクワ音楽院時代の二人は、すべての面においてラフマニノフの後塵を拝するスクリャービンという結果になってしまった。
なお、ラフマニノフは在学中に「交響詩《ロスティスラフ公》」を作曲し、さらに「ピアノ協奏曲第1番」を完成させていた。ここにチャイコフスキーからアレンスキーを経てラフマニノフへと至るロシア流ピアノ協奏曲の系図がモスクワ音楽院を舞台に完成された(※)。
※チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番(1875)→アレンスキー/ピアノ協奏曲(1882)→ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第1番(1891)
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第1番」(トラック1~3)
モスクワ音楽院卒業後、ラフマニノフとスクリャービンの接点はほとんどなく、それぞれが異なる世界へ向かっていった。ラフマニノフはロシア・ピアニズムの正統的なヴィルトオーゾとして、また最もロシアらしいとさえ称されるロシアの作曲家として広く活躍していく。
一方のスクリャービンはさらに自己の内側に向かって探究を始め、文学や美術などを独自のセンスで再構築する総合性と、その果てに発見した「神秘主義」と名づけられる新しい世界を一人黙々と歩み続けることになった。
ただ、1910年にラフマニノフはスクリャービンがモスクワ音楽院卒業後に作曲した唯一のピアノ協奏曲(1896〜97)を指揮している。その時のピアノの独奏はスクリャービン自身だったそうだ。
スクリャービン「ピアノ協奏曲」(トラック2~4)