読みもの
2022.04.20
4月の特集「音楽と部屋」

バルトークの難儀な家探し~アメリカでハンガリー伝統の家具付き物件を求めて

1940年にアメリカに移住したハンガリーの作曲家、バルトーク。騒音に悩まされたり、ハンガリーの伝統を大切にすると条件に合わなかったり、家探しは難航しました。バルトーク夫妻のニューヨークの住居について紹介します!

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増田良介
ナビゲーター
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

ブダペストのバルトーク記念博物館の中庭。

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ニューヨークで住居探しに苦戦したバルトーク

20世紀最大の作曲家のひとり、バルトーク・ベーラ(1881~1945)は、1940年、ナチス・ドイツの勢力が強まるハンガリーを去り、妻ディッタとともにアメリカへ移住した。

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ブダペストではとても快適な家に暮らしていたバルトークだが、アメリカでは住居問題に苦労することになった。そのてんまつについては、ブダペスト生まれで、バルトーク夫妻の親しい友人だったアガタ・ファセットの『バルトーク晩年の悲劇』や、息子ペーテル・バルトークの『父・バルトーク』に、かなりの字数を割いて書かれている。

特に興味深いのは、バルトーク夫妻が、最初に住んだフォレストヒルのアパートから、ブロンクスのリヴァデイルにあるアパートに移ったときのエピソードだ。これは、バルトークの人柄が垣間見える、どこかユーモラスなところもある話なので、少し紹介しよう。

バルトーク・ベーラ(1881~1945)
ハンガリー(現ルーマニアのナジセントミクローシュ出身)の作曲家、民族音楽学者、ピアノ奏者。作曲家としてオペラ《青ひげ公の城》や舞台音楽《中国の不思議な役人》、管弦楽曲《舞踏組曲》や《管弦楽のための協奏曲》などを残したほか、ハンガリーとその周辺諸国の民謡を収集・研究し、民謡研究にも成果を上げた。

カツレツの仕込み音がうるさいと苦情がきたフォレストヒルズのアパート

バルトーク夫妻がアメリカに来たのは1940年10月のことだった。ホテル暮らしのあと、12月7日、彼らはフォレストヒルズというところにあるアパートに移る。ディッタ夫人が見つけたこのアパートは、建物も新しく、交通も便利で、家具も備え付けで揃っていた。

ところが、ここは騒音がひどかった。大通りに面していて、車や地下鉄の音がうるさかったし、近所のラジオの音や上階の足音も筒抜けだった。バルトークは一日中耳栓をしていたが、まったく効果がなかった。

逆に、バルトーク家の料理をする音がうるさいという、近所からの苦情もあった。これは、仔牛のカツレツ(ヴィール・シュニッツェル)を作るために、すじ切りなどの下ごしらえをしていたのが原因だったようだ。

ついでながら、玄関には極彩色のひょうたんを数珠つなぎにしたメキシコの民芸品が吊してあり、バルトークはこれを気に入らなかったのだが、備え付けなので外すこともできなかった。そんなこともあり、どこかに移ろうということになった。

ハンガリーの伝統により家具付きにこだわる

バルトークの条件は、簡単なつくりの広い部屋であること、そして家具付きであることだった。奇妙に思えるかもしれないが、バルトークは、家具付きであることに強くこだわった。よさそうなアパートを勧められても、家具付きでなければ、バルトークは「論外だよ。家具を揃える余裕は全然ないよ」ときっぱり断るのだった。

アガタ・ファセットによると、ディッタはこう言った。

くにでは、家具っていうものは、全部、父方か母方のいずれかから代々伝えられるものでしょう? 知合いの羊飼いがあの人のために削ってくれた二、三のものを除けば、私たちのうちにあったものは、あの人が生まれた時から慣れている古いものばかりだったのよ。競売で家具を買う人があるなんておそらく聞いたこともないんじゃないかしら。あの人の知るかぎりでは、一台のベッドを買うんだって一財産要るっていうことよ。

『バルトーク晩年の悲劇』アガタ・ファセット著、野水瑞穂訳、みすず書房、1973年、p.51~52より

つまり、バルトークのこだわりは、単なる個人的な好みではなく、ハンガリーとアメリカの文化の違いに根ざすものだったのだ。家具も消費財のひとつであり、中古品を安く買ったりすることが簡単にできるアメリカと、家具が、一生ものであるのはもちろん、先祖から受け継ぎ、子孫へと伝えるのが当然だったハンガリーでは、家具というものに対する考え方さえ違っていた。

19世紀のハンガリーの家具。重厚感がありますね。

妻と友人の機転で無事に気に入る部屋を見つける

さて、フォレストヒルにうんざりしていたバルトーク夫妻のために、ブロンクス区のリヴァデイルにある広い快適なアパートを見つけたのは、アガタだった。彼女はブダペスト生まれだったが、1920年からアメリカで暮らしていて、渡米後のバルトーク夫妻の近くにいて、尊敬する大作曲家のために、なにかと生活の手助けをしていた人だ。ブダペスト音楽院出身の彼女は、アメリカでピアノを教えていたのだが、弟子のひとりが住んでいたそのアパートがまもなく空くことを知ったのだ。

だが、ここは家具付きではなかった。バルトークに勧めても、すぐに断るに違いない。そこで、アガタとディッタ夫人は、バルトークにこのアパートを見せるために、ちょっとしたとんちを使った。前の住人が、使い古したソファベッドを2つ置いていったのを、バルトークには「一部家具付き」と伝えたのだ。実際には、ソファベッド以外に、古びたテーブルと二脚の椅子もあったとはいえ、とても「家具付き」と言えるようなものではなかったのだが……。

しかし、アパートを見に訪れたバルトークは、すぐに気に入った。ユーウェン・パークに近いそのしずかな環境は、いくらかブダペストに通じるものがあったとも言う。家賃は75ドル。ほかの家具は、ディッタとファセットが、倉庫競売などに出かけて格安で揃えた。1941年5月、バルトーク夫妻はこのアパートに移った。

幸いなことに、家主との関係も良く、騒音に悩まされることもなく、バルトーク夫妻は、約2年2ヶ月をこのアパートで暮らした。1943年7月、彼らは事情でこのアパートを出ることになったが、アメリカで住んだ3つのアパートの中では、ここを一番気に入っていたようだ。

参考文献
『バルトーク晩年の悲劇』アガタ・ファセット著、野水瑞穂訳、みすず書房、1973年
『父・バルトーク』ペーター・バルトーク著、村上泰裕訳、Stylenote、2013年

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増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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