日本人指揮者として「第九」を通して平和に向き合う
2019年2月25日にドイツが世界に誇るコンサートホール・ベルリンフィルハーモニーで開催された、「ベルリンの壁崩壊 東西ドイツ統一30周年 特別平和祈念『第九』コンサート」。この演奏会の指揮者として、ハンガリーを拠点にヨーロッパで活躍する金井俊文氏が起用された。
ベルリンで歴史と向き合い、第九を通して平和について考えてきた金井氏。演奏会のレポートと平和への想いを通して、今一度平和について考えてみよう。
ハンガリーの首都ブダペストを本拠とし、ハンガリー国立ブダペストオペレッタ劇場アシスタント指揮者を経て、2021年よりハンガリー・ソルノク市立交響楽団正指揮者。2016...
かつて東西が睨み合った跡地に咲き誇る桜
憧れのコンサートホール、ベルリンフィルハーモニー
私が指揮者を志したきっかけになったのは、野球に夢中だった中学生の頃、クラシック音楽好きの叔父がくれた1本のビデオだった。それは、ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮を振るベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による演奏会の様子を映したもので、曲目はベートーヴェンの《第九》、会場はクラシック音楽の殿堂・ベルリンフィルハーモニーであった。その後何百回観たかわからないビデオだが、その日以来、ベルリンフィルハーモニーは私にとって特別な場所となる。
1年前の春、ベルリンの壁崩壊30周年平和祈念コンサートの指揮をしてほしいと突如打診があった。当初は「ベルリンで第九!」という夢のような話に心が躍ったが、すぐにコンサートの趣旨について深く考え込むようになった。
ベルリンの壁崩壊に向き合う
今から30年前の1989年11月9日、東西冷戦の象徴でもあったベルリンの壁が崩壊した。28年間に渡り同じ民族を分断してきたこの壁の崩壊により、ドイツは再び1つの国として再出発する記念すべき日となった。
このとき、私はまだ5歳になったばかりだった。当時の記憶はかすかにしかない。
6年前に現在本拠としているハンガリーに留学してから、20世紀のヨーロッパ史、東西冷戦について多くを学んできた。ハンガリーは冷戦時代に共産圏に属していたので、音楽院時代の先生方や周りの方から、当時の暮らしや音楽家の事情などたくさん話を聞くことができた。また、公演が決まってから何度かベルリンを訪れ、記念碑や博物館を訪れては自分なりに思案を巡らせた。
そして知識が増えるほど、このコンサートをどのような気持ちで行なえば良いのかという迷いも増えていった。
ベルリンの壁崩壊にまつわる第九の演奏史
ベルリンの壁崩壊にまつわるベートーヴェンの第九の演奏史は、壁が崩壊して1ヶ月余りが過ぎたクリスマスから始まった。東ベルリン側にあったシャウシュピールハウス(現在のコンツェルトハウス)にて、ミュージカル《ウエスト・サイド・ストーリー》の作曲家としても名高いレナード・バーンスタインの指揮により第九のコンサートが行なわれた。
このコンサートは、冷戦終結を象徴するコンサートとして、東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連出身の音楽家による混成オーケストラで演奏された。「歓喜の歌」の歌詞の“Freude(フロイデ、歓喜)”を、“Freiheit(フライハイト、自由)”に変えて歌ったことでも知られ、今でも伝説となっている。
また、翌年のドイツ再統一の前夜には、東ドイツ出身の指揮者クルト・マズアとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって演奏された。その後も記念年などにダニエル・バレンボイム(現在ベルリン国立歌劇場音楽監督)が度々指揮をしてきた。
歴史を知る巨匠、マズア氏の言葉
話は10年ほど前に遡るが、私は運良く晩年のクルト・マズア氏のレッスンを受けることができた。長くライプツィヒ市の楽長を務め、東ドイツを拠点に活動したマエストロだった。ライプツィヒは当時、東ドイツの主要都市のひとつであったが、1989年にベルリンの壁崩壊につながるきっかけになった民主化運動(月曜デモ)が起きていた。直前に中国で起きた天安門事件のような悲惨な状況にならないように、東ドイツ政府の軍隊が民衆に銃を向けないようマズア氏が掛け合い、一触即発を免れたというエピソードも残っている。
そんな歴史の証人のようなマエストロから当時のレッスンでいただいた言葉が、今回も私が指揮するうえでのヒントをくれた。「上手くやろうとか、失敗しないようにとかいう気持ちは捨て、心を開いて、どんな場所でも自分の信じた音楽を演奏家と聴衆と共有しなさい」。
指揮者は自分では音が出せない存在。だからこそ徹底的に第九のスコアを研究し、平和を願うすべての人々と第九の持つエネルギーを共有することに全神経を傾け、一切の邪念を捨てようと覚悟を決めた。
オーケストラの主張を共有し、楽しむ
今回共演したのはベルリン交響楽団、ベルリン国立歌劇場などで活躍している4人のソリスト、そして応募によって集められた約150名の合唱団。総勢230人による演奏となった。ベルリンフィルハーモニーは2,440人収容可能なホールだが、1月上旬の時点で立ち見チケットや車椅子の席まで完配になったとの連絡があった。公演当日も何十人もがチケットオフィスの前でキャンセル待ちの列を作っていたそうだ。
コンサートのために用意された練習は合計9時間。多いようにも感じるが、ヨーロッパには、日本のオーケストラのように毎年末に複数回第九を演奏する習慣がない。ドイツの首都を本拠とするベルリン交響楽団でさえ、3年ぶりだったそうだ。中には初めて弾くと話してくれた若い団員もいた。
初日、今回のコンサートを一緒にできることへの感謝を伝え、リハーサル開始。初めて指揮するドイツのオーケストラの重みやタイミングに新鮮さを感じつつも、こちら側の提案と、彼らからの意見をまとめていく。特に今回、カラヤンの芸術監督時代からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で1stヴァイオリン奏者を務めるヘルムート・メーヴェルト氏がゲスト・コンサートマスターを務めて下さったこともあり、リハーサルは順調に進んだ。
しかし、第4楽章冒頭のチェロとコントラバスのレチタティーヴォに差し掛かると、それまで私の指揮とともに演奏してくれていた彼らが突如自分たちのペースで演奏しはじめた。私が想定していた音楽と彼らの感じる音楽が明らかに違う。必死に指揮で誘い込もうとしたが暖簾に腕押し状態。むしろ彼らが弾きづらそうになるだけだった。
©米澤尚洋
翌日、再びレチタティーヴォの場面。今回は彼らの音楽をよく聴いてみることにした。なるほど、この場面を彼らは「自分たちの間合いと息の長さ」で弾きたいのだと感じた。ポイントとなる箇所だけ約束を決めて、彼らのこのレチタティーヴォに込める主張を私も共有し、楽しもうと決めた。
オーケストラ、ソリスト、合唱団、そしてスタッフの全員が、このコンサートを記念すべきものにしたいという情熱に溢れていた。もちろん私も彼らに負けないぐらい意気込んでいた。そういった熱量がさらに良い雰囲気を作り出していったのだと思う。また、今回のために各地から集まった愛好家の合唱メンバーたちを、ベルリン国立歌劇場をはじめ世界中の歌劇場でソロを務めるテノール歌手の澤武紀行氏が合唱指揮者として見事にまとめてくださった。
熱気に包まれたフィルハーモニーホールで想いをひとつに
いよいよコンサートが始まり、冒頭から集中した状態で闘いの音楽が進んでいく。すると第1楽章が終わった瞬間、まるでコンサートが終わったかのような大きな拍手が鳴り響いた(通常楽章の合間に拍手はしない)。しかもすぐ止む気配もなく、少々困った気持ちを抑えつつ、30秒ほど鳴り止むのを待った。
ユーモアと生命力に満ちた第2楽章、崇高で神秘的な第3楽章の終わったあとにも同じようなことが起きた。そして第4楽章、冒頭のレチタティーヴォはチェロとコントラバスが待ってましたとばかりに身体中で弾いてくれた。十分に時間を取り、彼らの音楽に寄り添った。その後現れる歓喜の主題を経て、ソロと合唱が加わる。ソリストは常に明るく表情豊かに、それに続く合唱はソリストに寄り添い、賛同するかのように歌い上げた。
第4楽章が終わると一斉に嵐のような拍手と歓喜の声が会場に響き渡り、振り返るとスタンディング・オベーションが目に飛び込んできた。
ベルリンフィルハーモニーは1963年、つまり壁が建てられた2年後に、当時の西ベルリン地区に建設された。壁からの距離はわずか300メートル。当時を知る音楽家からこんな話を聞いたことがある。
「いずれドイツは再び1つになる、そして芸術に壁は存在しない。そんな想いを込めてフィルハーモニーホールはあの場所に建てられたんだ」
時の中で厳しく分け隔てられたものは、再び一つとなり兄弟となる
進め、兄弟よ、あなたたちの道を、歓びに満ち、勝利に進む英雄のように!
第九という作品は、時代を超えてすべての人々に知恵と気付きを与えてくれる。
今こそ、ベートーヴェンとシラーのメッセージを私たちは警告として、そして希望として受け取り、未来に平和を築くための道を進むべきではないだろうか。
ベルリンの壁跡地の桜並木で見たような多くの人々の笑顔が、世界中どこでも見られるように、私はこれからも平和を築く努力と、音楽の力を信じることを忘れず、自分の道を歩んでいきたいと思う。
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