読みもの
2022.11.30
ほんとうは“危険”な名曲 #6

バッハ《マタイ受難曲》 人間の業の深さに触れたとき、唐突にその音楽はやってくる

クラシック音楽評論家の鈴木淳史さんが、誰でも一度は聴いたことがあるクラシック名曲を毎月1曲とりあげ、美しい旋律の裏にひそむ戦慄の歴史をひもときます。

鈴木淳史
鈴木淳史

1970年山形県寒河江市生まれ。もともと体育と音楽が大嫌いなガキだったが、11歳のとき初めて買ったレコード(YMOの「テクノデリック」)に妙なハマり方をして以来、音楽...

マティアス・グリューネヴァルト イーゼンハイム祭壇画(第1面)

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とある日の昼下がり。コンビニの雑誌売り場で、週刊誌をぼんやり眺めていた。長らく指名手配されていた容疑者が逮捕されたという記事があった。容疑者の恋人だったか配偶者だったかの親族が、警察へ通報したらしい。懸賞金もかかっていたという。

結局はカネなんだろうね、などとちょっとさもしい気分のまま、雑誌を棚に戻して店を出る。そのときだった。頭のなかで、「血を流すがいい、その心よ」が鳴り響いたのは。

バッハの《マタイ受難曲》の第8曲、ソプラノのためのアリアだ。ユダがイエスを裏切って金をもらう場面の直後に歌われる、ロ短調による痛切極まりない旋律である。

その容疑者とイエスでは、シチュエーションはまるで違う。ただ、人間の業の深さに触れたとき、唐突にそんな音楽がやって来たのだった。

《マタイ受難曲》第8曲 アリア「血を流すがいい、その心よ」

あとからじわじわと身に沁みてくる音楽

このように日常生活に音楽が突然割り込んでくることは、たとえばオペラの場合はあまりない。自分を捨てた恋人とよりを戻そうと交渉しているときに、背後から「闘牛士の歌」(《カルメン》)が鳴り響くことがないように(少なくとも自分の場合はなかった)。

オペラにおける感情は、その場で味わい尽くすもの。そのときに受ける感情がいかに強くても、そう長持ちはしない。いくらヴォツェックの受けた理不尽さに憤りを覚えようと、劇場を出てうまい飯を食べて酒でも飲んでしまえば、とたんに気持ちが良くなってしまう。

しかし、《マタイ受難曲》は、あとからじわじわと身に沁みる。

聴いている最中は、もちろんそこで展開されるイエスの受難を感覚的にたどりつつも、バッハの音楽のすばらしさに、ただ浸りきっている。イエスが受けた苦しみを痛みとして受け取りつつも、バッハの旋律に酔ってさえしまっている。

だからこそ、音楽のことなど何も考えていなかった日常生活のなかで、何かを契機にその音楽がポコッと顔を出す。その音楽はどこかで内面化されてしまっていて、あらぬタイミングでそれが出てしまうのか。こりゃあ、なかなか危険な代物ではないか。

ピーテル・パウル・ルーベンス《最後の晩餐》

痛みを内面化し、赦しへと転化させていく

《マタイ受難曲》は、十字架にかかるイエス・キリストの受難を描いた音楽だ。イエスの逮捕、裁判、処刑、そして復活までを劇的にたどっていく。

イエスの磔刑や、悲しみに暮れる聖母などの宗教画がある。こうしたものの音楽版といっていい。

このような絵画では、つねに痛みを強調して描く。その痛みを強調することで、受け手の感情に揺さぶりをかけ、神への道へと誘うのがキリスト教の方法論だ(というのが、異教徒たるわたしの雑すぎる理解である)。

《マタイ受難曲》にも、そうした身体的な痛みを描く場面がある。第51番のアルトによるレチタティーヴォ・アッコンパニャートは、イエスが鞭打たれるシーンだ。弦楽器によって鞭で打たれるようなリズムが表わされている。このリズムは、次のアリア「涙が私の頬に流れ落ちなくても」で引き継がれる。鞭打ちという暴力が、献身を歌うアリアの躍動感にそのまま繋がっているのである。

《マタイ受難曲》第51番 レチタティーヴォ・アッコンパニャート

《マタイ受難曲》第52番 アリア「涙が私の頬に流れ落ちなくても」

バッハの受難曲は、こうした「痛み」のようなものを外面的に表わすというより、それをつねに内面へ、そして赦しへと転化させていく音楽だ。

たとえば、時代は少し新しくなるが、同じように受難をテーマにした、パイジェッロのオラトリオ《イエス・キリストの受難》のようなはなはだしく外面的な作品と比べると、その違いは著しい(オペラみたいで面白い曲だけれど)。

「痛み」のようなものは、官能性へとも繋がっていく。たとえば、最後の晩餐で、死を予感したイエスがパンは自分の身体であり、ワインは自分の血だと述べる部分(第11曲)だ。バス歌手によって歌われるこのイエスのレチタティーヴォは、どこかエロティシズムの香りが漂う。そのあとのアルトによる警句的なレチタティーヴォ・アッコンパニャートやアリア「この心をあなたに捧げよう」(第13曲)では、オーボエ・ダモーレが活躍。バッハは、この楽器の官能的な響きを引き出す音楽をそこに置いたのだ。

 

《マタイ受難曲》第11曲  レチタティーヴォ

《マタイ受難曲》第13曲 アリア「この心をあなたに捧げよう」

そこで述べられているのは、パンやワインという日常的なものに、神の愛は遍在するのであり、信じる者の心にはいつも自分がいるよ、というメッセージなのだろう。

《マタイ受難曲》が、わたしたちの心のなかでそれが奏でられる機会をいつもうかがっているように。

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