井内美香の「すべての道はオペラに通ず」第10回

その新妻、凶暴につき!?――天才オペラ作曲家が描く男女関係の悲喜こもごも《ドン・パスクワーレ》

読みもの
2019.10.26

美しい娘と結婚した大金持ちのおじいさん。オペラ・ブッファ(喜劇的なオペラ)によくあるドタバタコメディの典型的な登場人物たちに、思わず同情や共感を抱かせる「血」を通わせた作品が《ドン・パスクワーレ》です。
オペラ・キュレーターの井内美香さんが時代背景を含めた作品の魅力と、イタリアの大天才オペラ作曲家ドニゼッティを紹介します。

井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター
井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

ドン・パスクワーレ、70歳で結婚を決意

オペラ《ドン・パスクワーレ》の主人公ドン・パスクワーレさんは、ローマに住む70歳過ぎの男性。とてもお金持ちの資産家です。そしてなぜか独身。別に女嫌いというわけでもないのですが、あっという間にこの歳になってしまったそうです。節約家、伝統を重んじるタイプ。人を信じやすい。少し頭が硬いけれど、根は悪い人ではありません。

ちなみに、ドン・パスクワーレの「ドン」は貴族や功労のあった男性を呼ぶときの尊称です。

《ドン・パスクワーレ》初演時のパスクワーレを演じた歌手ルイージ・ルブランシュ。パスクワーレはイタリアのオペラ・ブッファに登場する典型的な太鼓腹の金持ち年寄り。

ドン・パスクワーレさんには甥っ子がいます。名前はエルネスト。絵に描いたようなおぼっちゃんで優男です。ドン・パスクワーレさんはゆくゆくは自分の身代を甥に譲るつもりだったのですが、どうも最近の甥をみていると、遺産を相続したら最後、あっという間に浪費して終わってしまいそうな予感がしています。

なぜかというと、エルネストは若くて美人だと評判のある未亡人に惚れこんでいるのです。結婚するなら彼女しかありえない! とエルネストは言います。でも、世間を知っているドン・パスクワーレは、どうせ抜け目のない女にしぼりとられるのがオチだろうと考えます。そうしたら、わしが貯めてきた財産はどうなる?

そこでドン・パスクワーレに名案がひらめきます。いっそのこと、わしが結婚したらどうだろう? 婚活には遅すぎる? いやいや、人生100歳時代だ、まだ先は長い。若くて美人、でも未亡人などではなく、そう、修道院(つまりは当時の全寮制女子高校)を卒業したばかりのウブな娘をお嫁にもらい、いろいろ教えてやりながら幸せに暮らす! 子どもも生まれるかも知れぬ! と、ドン・パスクワーレは若い娘との結婚生活を想像してもう夢心地です。

結婚した途端に豹変した妻に唖然

ところが、ここからが大変でした。詳しくはドニゼッティ作曲のオペラ(台本もドニゼッティ作)《ドン・パスクワーレ》をご覧いただきたいと思うのですが、ウブな娘だと思って結婚した相手は、じつはエルネストの恋人である、くだんの若き未亡人ノリーナの変装だったのです!

それを知らないドン・パスクワーレは、結婚契約書にサインした途端に新妻が豹変してびっくり仰天! ついさっき「夜はいつも家におります。劇場なんて行ったこともありませんし、まったく興味がありません」と言ったその口で、「どこに行くかですって? オシャレして劇場に行くのよ。なにか文句あります? お年寄りは家でゆっくり寝ているといいわ。私は朝帰りするから!!」と。ありえない展開です。

「一体なぜ、こんなことになった!?」 2人は激しくぶつかり、ついにノリーナはドン・パスクワーレに平手打ちを喰らわせます。ドン・パスクワーレは茫然自失。そして彼女が落としていった手紙から新妻の浮気の証拠をつかんだドン・パスクワーレは怒り心頭に発し、彼女をやっつける計画を立てるのですが……。

1843年『ロンドン・ニュース』に掲載された《ドン・パスクワーレ》上演の様子。左からノリーナ、エルネスト、ドン・パスクワーレ、若い二人に知恵を貸すマラテスタ。

劇場を熱狂させる天才作曲家ドニゼッティ

ドニゼッティはイタリア・オペラの天才作曲家です。北イタリアのベルガモという小都市の出身で、貧しい家庭の子どもでしたが、イタリアで活躍したドイツ人作曲家マイールに師事し、ドイツ語圏の発展した管弦楽と、イタリアの歌の旋律美の両方を身につけたエリート作曲家でした。

ガエターノ・ドニゼッティ(1797-1848)
悲劇から喜劇まで、生涯に70作品ほどのオペラを残したイタリアの作曲家。驚異的な速筆で知られ名作《愛の妙薬》は14日間で作曲したといわれる。

しかも、ドニゼッティは貴族などハイソな人向けの音楽よりも、大衆が通う歌劇場のためのオペラを主に書きました。演劇的なセンスも持ち合わせていたドニゼッティの、ドラマと音楽が一致した素晴らしい作品の数々は、オペラ・ハウスで聴いてこそ真価を発揮します。

《ドン・パスクワーレ》は喜劇的なジャンルであるオペラ・ブッファに典型的な〈金持ちの年寄りが若い娘を望むが、彼女と若い恋人が知恵をしぼって年寄りをこらしめる〉というストーリーを持っており、ロッシーニの《セビリャの理髪師》とも共通点が多くあります。しかし、パターン化された古臭い劇としてではなく、オペラが書かれた同時代のローマを舞台にした台本と当意即妙な音楽により、今までのオペラ・ブッファでは誰も同情しなかった“年寄り役”ドン・パスクワーレの悲哀が真実に感じられ、人々は彼に感情移入するようになったのです。

我慢を強いられた女性たちが共感したノリーナ

このオペラの初演はパリのイタリア劇場()。1843年のことでした。当時、ヨーロッパの最先端の劇場文化が花開いていたパリで、芸達者な歌手たちが出演した《ドン・パスクワーレ》は大評判になりました。そしてこのオペラにはもう一つ、それまでのオペラ・ブッファにはなかった要素が含まれていました。それはヒロインの若い未亡人、ノリーナの存在です。

18世紀ヨーロッパは一握りの貴族と民衆に分かれ、貴族の身分に生まれた女性たちは結婚しても男女の付き合いがかなり自由な時代でした。ところがフランス革命を過ぎ19世も半ばになってくるとブルジョワジー、つまり裕福な市民階級が台頭してきます。ナポレオン法典という名で知られる1804年に作られた新しい法律では、妻は夫の所有物として扱われ、一度結婚した夫婦は、妻の不貞以外の理由では離婚も禁じられていました。かつて女性たちが謳歌していた自由は奪われ、良き妻、良き母であることを義務付けられたのです。

ナポレオン法典(正式名称はフランス民法典)1804年初版の第1ページ目。高校や大学教育を受けてはならない、契約を交わしたり財産を管理してはならない、参政の権利は無い、夫の許可なしに働いてはいけない、働いた賃金を自分で受け取ってはならない......など、女性はかなりの制限を設けられ、20世紀に入っても部分的に使用されていた。

だからこそ、ドン・パスクワーレと結婚した途端に(ノリーナが演じている)新妻が豹変する姿を見るのは、当時の女性の観客にとってはかなり痛快だったのではないでしょうか。そして最後にドン・パスクワーレは度量の大きなところを見せ、オペラはハッピー・エンドとなります。

若者たちの未来に幸あれ。そしてドン・パスクワーレの老後(100歳まで生きるとすればあと30年!)が健康と、愛情に恵まれたものでありますように!

公演情報
新国立劇場《ドン・パスクワーレ》

公演日時:
2019年11月9日(土)14:00 
11月11日(月)19:00
11月13日(水)14:00(オペラパレス託児サービス利用可)
11月16日(土)14:00(オペラパレス託児サービス利用可)
11月17日(日)14:00 オペラパレス

料金:S席27,500円 A席22,000円 B席15,400円 C席8,800円 D席5,500円

 

指揮:コッラード・ロヴァーリス
演出:ステファノ・ヴィツィオーリ
美術:スザンナ・ロッシ・ヨスト
衣裳:ロベルタ・グイディ・ディ・バーニョ
照明:フランコ・マッリ
演出助手:ロレンツォ・ネンチーニ

出演:
ロベルト・スカンディウッツィ(ドン・パスクワーレ)
ビアジオ・ピッツーティ(マラテスタ)
マキシム・ミロノフ(エルネスト)
ハスミック・トロシャン(ノリーナ)
千葉裕一(公証人)

東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団

トリエステ歌劇場公演より Photo: Fabio Parenzan
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