読みもの
2020.07.03
かげはら史帆さんの新作

『ベートーヴェンの愛弟子』~時代の狭間に生きたフェルディナント・リースの波乱とは

飯田有抄
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

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作曲家の生涯を追った、「世界初の伝記」。そんなフレーズに心躍らないわけがない。しかも対象は、「ベートーヴェンの愛弟子」であるフェルディナント・リース(1784〜1838)、その人だ。

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著者の、かげはら史帆さんの前作『ベートーヴェン捏造:名プロデューサーは嘘をつく』(2018年、柏書房)は、ページをめくる手が止まらないほど面白く、夢中で一気に読んだのだった。「捏造」にも登場するリース君といえば、かげはらさんが兼ねてよりその音楽と人物を愛し続けてきた作曲家だ。

フェルディナント・リース(1784〜1838)
ドイツ・ボンの宮廷音楽家一族に生まれた、作曲家、ピアニスト、指揮者。ウィーンに滞在した期間にベートーヴェンの弟子に入り、晩年に師の回想録を執筆した。
かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社/2020年)
古典派からロマン派へ、音楽史のターニングポイントに生きた音楽家、フェルディナント・リースの波乱の生涯。296ページ。価格:2,200円(税抜)。
かげはら史帆『ベートーヴェン捏造:名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房/2018年)
犯人は、ベートーヴェンの秘書シンドラー。音楽史上最大のスキャンダル「会話帳改竄事件」の全貌に迫るノンフィクション! 320ページ。価格:1,700円(税抜)。

手をつけたら最後、こりゃ終わりまで他のことが何もできなくなるぞ……という一種の警戒心(!?)から、発売時に届いたハードカバーの美しい扉をなかなか開けられなかったのだが、ようやく腰を据えて読めるタイミングが来た。

果たして、リース君の生涯は、思いもよらないほどドラマティックであった!

詳しい内容については、ぜひ実際に手にとって読み進めていただきたいのだが、私が驚きを持って読んだのは次のポイントだ。

師事した4年の歳月に見る、ベートーヴェンの姿

ベートーヴェンの弟子だし、けっこう長く一緒に過ごした人だ、という印象を勝手に持っていたのだが、リースが巨匠に師事したのは16歳から20歳(1801〜1805年)という青春真っ只中の時期のみなのだった。

読む前は、本書の大部分が師匠とのあれやこれやのエピソード紹介なのかと思ったら、そこは意外なほどアッサリしている。それよりも、副題にあるとおり、彼の「数奇なる運命」に驚きながら、その生涯全体を追うことになる。

とはいえ、やはりリースとの関係性の中から照射されるベートーヴェン像に出会うこともできる。とりわけ筆者はピアノにまつわる話(ベートーヴェンの指導、楽器のこと、当時の演奏習慣など)にワクワクとさせられた。

たとえば、下記のような引用。これは、ベートーヴェンの友人で医師だったヴェーゲーラーとリースとの共著『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書』からの文章だ。残念ながら完全な日本語訳で読むことができない著作なので、こういった引用に出会えるのも嬉しい。ベートーヴェンの音楽観、そしてリースが師匠を注意深く冷静に見ている雰囲気も伝わる。

パッセージを弾きそこなったり、際立たせたい音符や跳躍をミスタッチしても、ベートーヴェンはほとんど何もいわなかった。しかしクレッシェンドなどの表現や作品の性格づけに関して足りないところがあると、彼は激怒した。前者はただの事故だが、後者は知識や感性、注意深さを怠っているからこそ起きる——そう彼は言った。実際のところ彼自身も、公開演奏のときに前者のミスはよくやらかしていた。

——かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社/2020年)44ページにおける『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書』からの引用

さらに、ベートーヴェンのもとを20歳で離れ、3年後に再開したときには関係性に亀裂が走った話であるとか(本書82ページ。その後、関係性は修復される)、ベートーヴェンが1817年にイギリスのブロードウッド社から贈られた6オクターヴのピアノのプレートには、リースの名前が書かれていたとか、かの「第九」作曲の動機として実はリースの働きかけが大きかったかもしれず、リース自身の作品との連関も見えてくるといったあたりも、これまでほとんど語られてこなかった逸話に満ちている。

滞在したヨーロッパ各地の情勢と、そこでの仕事ぶり

言ってしまえば、フェルディナント・リースとは、20世紀から現代にかけて、ほぼ「忘れられた」作曲家であった。早熟な天才性をもった人物としてフィーチャーされるタイプでもなく、唯一の光の当てられ方は(たった4年師事した)「ベートーヴェンの弟子」だった。

だが彼は、ナポレオン戦争時代の動乱がもっとも激しいヨーロッパ社会の荒波に揉まれ、さまざまなチャンスを失い、その痛みに耐えながらドイツ、フランス、北欧、ロシア、英国へと拠点を激しく移動し、人と人との繋がりの網の目の中で、最終的には大いに尊敬を集める作曲家へと大成する

おそらく手に入る資料は今だ限られてはいるのだろうが、かげはらさんは、それらを丹念に調査しつつ、大局的にとらえ、史実に基づくドキュメンタリーとして綴りつつ、ご自身の視点を巧みに交差させながら、読み手の心を捉える物語的評伝を完成させている。

その記述に触れることで、戦争や革命の混乱の中で生じたヨーロッパ社会のダメージを生々しく感じられる一方で、「指揮者」という職業が誕生し定着してゆく流れであるとか、楽譜出版業と楽器製造業の活気づいていく様にも、読み手は立ち会うことができる。

その名が影を潜めた謎

それにつけても、筆者がリースに思わずシンパシーを抱いてしまうのは、彼の生まれたタイミングの「狭間」感である。生まれはベートーヴェンより14年遅い。作曲家として自立してゆく20代半ばには、ショパンシューマンらロマン派を代表する天才たちが生まれてくる。

リースは、聴衆を魅了する輝かしいピアノ協奏曲もたくさん自作自演したし、ベートーヴェンに連なる古典的作曲家として尊敬を向けられるようになる40代以降(かげはらさんの言う「セカンドキャリア時代」)は、ニーダーライン音楽祭のディレクターとして手腕を振るい、作曲家として「あがり」の仕事とも言えるオペラやオラトリオといった大作も手がけた。

かげはら史帆さんが推薦するフェルナンド・リース作品のプレイリスト

だが、そのあたりからパリを中心に、華やかなりしピアノ文化が栄えまくる。リストのような花のあるスターが台頭、後世へと多大な影響力を振るう。もう少しすると、ベートーヴェンの成し遂げた交響曲の構築力を継承するかのように、堅固なドイツ的構成感のある作風でブラームスが登場し、彼らの名が音楽史を彩る。

そして、多くのドキュメントや音盤で、リースの名は見当たらなくなる。
あら? リースの活躍ぶりは、どこいった?

もちろん消えるはずもない。かげはらさんの伝えるリースという人物はどうやら、とても優秀な人なのだ。その作品を聴くにつけても、実に器用で、時代や地域のニーズに応じた秀逸な作品を書き、見事に演奏でき、そして度胸も持った人だった。

作曲の手本であるベートーヴェンの模倣から入った彼であったが、ロシアに滞在したときはロシア風のリズムを持つ「ピアノ協奏曲第2番」や、「3つのロシアの歌による変奏曲」op.72などを書き、長きに渡り生活したロンドンでは、フィルハーモニック協会の掲げる理念に適合するかのような交響曲を6つも書いた。

フェルナンド・リース「3つのロシアの歌による変奏曲」op.72

彼はこのように、一方では正統派のドイツ人芸術家として、他方ではロンドンの市民文化の受容に応えるピアノ作曲家としての顔を器用に使い分けて、多方面で人気を獲得していった。

——かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社/2020年)122ページ

彼の代表作と言われる「ピアノ協奏曲第3番」op.55やピアノ独奏曲の大作「夢」op.49などは、19世紀の音楽文化の中心を担ったとも言えるピアノ・ヴィルトゥオーゾ時代やロマン的表現を先駆けるものであるし、イギリス式アクションのダイナミックなピアノの表現力を我がものとして即座に取り入れて当世風の「ロンド」「幻想曲」「変奏曲」など、ブルジョワのご婦人方にウケの良い(楽譜がよく売れる)作品も書いた。

フェルナンド・リース「ピアノ協奏曲第3番」op.55、「夢」op.49

なのに、なぜ消えた!?

これは本書を読んでファンタジーを膨らませた筆者の見解であるが、やはり時代時代を切り開く革命的な痕跡を深く残したスターたちは、良くも悪くもクセが強い!アクが強い!  時に歪(イビツ)なまでに個性的だ。

それに比して、リースは作風も生き方も、大胆でカッコよく、一貫性のある音楽家像が浮かび上がるのだが、ひょっとすると、器用で優秀すぎたのではないか? 音楽のあり方が、古典派からロマン派と呼ばれるものへと多様性を広げながら移り変わり、産業革命に伴って楽器の性能も大きく変化した時代。それに見事に対応していったリースは、対応できすぎてしまい、数百年を超えて語られるにはフックが今ひとつ足りなかったとか……? 

そんなふうに、勝手ながら思った次第である。いや、まだまだリースの作品も一部しか私は聴けていないし、やっと、かげはらさんの一冊で知ったことばかりでなので、勝手な妄想はここまでにしよう。果たして、みなさんはどう思われるだろうか?

いずれにせよ、今や私はリース・ファンだ。かげはらさんの著書に出会えたおかげで、好きな音楽がまた増えた。今後の研究や録音にも期待していきたい。

かげはら史帆さんが本書に登場するリースの作品をまとめたプレイリスト

飯田有抄
飯田有抄 クラシック音楽ファシリテーター

1974年生まれ。東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程修了。Maqcuqrie University(シドニー)通訳翻訳修士課程修了。2008年よりクラシ...

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