《ユグノー教徒》~聖バルテルミーの大虐殺が背景のオペラ 黒幕の王妃はなぜ消えた?
オペラには、歴史に実在した有名な女性が数多く登場します。彼女たちはオペラを通じて、どのようなヒロインに変貌したのでしょうか? 今回の主人公は、メディチ家に生まれてフランス王妃となり、夫の死後は子の摂政として君臨したカトリーヌ・ド・メディシス。聖バルテルミーの大虐殺の黒幕でありながら、これを描くオペラ「ユグノー教徒」では彼女の存在が「消えて」います。史実におけるカトリーヌは、宗教戦争の時代をどのように生き抜いたのでしょうか?
東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン...
フランス王アンリ2世の妃。フィレンツェの名門メディチ家に生まれ、ローマ教皇クレメンス7世の仲介でフランス王子アンリと結婚。1547年にアンリがアンリ2世として即位し、王妃となる。
アンリには愛人がいたが、カトリーヌは10人の子を産んで王妃の座を死守。アンリの死後は政治に介入し、息子シャルル9世の摂政として権勢を振るった。
宗教改革で新教徒(=「ユグノー教徒」)が台頭すると、カトリックとユグノーの融和を模索するが、ユグノーの有力者コリニー総督の反乱計画がきっかけで「聖バルテルミーの大虐殺」が勃発。カトリーヌは黒幕とされ、後々まで批判にさらされた。
晩年は溺愛していた息子アンリ3世との確執に悩まされた。
「黒」のイメージが生涯つきまとった女性
16世紀は、「女王」が表に出始めた時代だった。前回取り上げたイングランドのエリザベス1世、その前代の異母姉メアリー1世、前々回のヒロイン、スコットランド女王メアリー・ステュアートはその代表格だ。
一方、フランスには「サリカ法」という法律があり、女性は王座につくことができなかった。だが王の母、「国母」として、長くフランス王国の実質的な女王だった人物がいる。
カトリーヌ・ド・メディシス。夫のアンリ2世が不慮の事故で亡くなって以来、黒い喪服を着続けて「黒王妃」とも呼ばれた女性だ。
だが「黒」のイメージは、衣装だけが理由ではなかった。14歳でフランス王子アンリに嫁いで以来、彼女には何か禍々しいイメージがつきまとっていた。
外国人、商人の娘、占い好き、陰謀好き……彼女は決して陰気な性格ではなく、むしろ社交的で陽気なたちだった。しかし身分の低さに対する反発に加え、戦乱の時代ならではの困難にさらされ、誤解され続けたことがイメージを曇らせた。そして、ある大事件の「黒幕」とされたことが……。
その「大事件」に触れる前に、カトリーヌの人生を眺めてみることにしよう。
波乱万丈の子ども時代
子ども時代は波瀾万丈だった。実家はフィレンツェのメディチ家。銀行家として財を成した一族だ。
カトリーヌは唯一の正統な後継者として生まれるが、生後15日で母、21日で父を喪い、孤児になってしまう。
親戚を転々とし、修道院に預けられ、フィレンツェを反乱軍が取り囲んだ時は通りを引きまわされて晒し者にされた。
反乱が鎮圧され、危機を脱したカトリーヌはメディチ家出身の教皇クレメンス7世に引き取られて、フランス国王フランソワ1世の次男アンリに嫁ぐことになる。
「身分違い」の結婚
「身分違い」の結婚だった。父ロレンツォは公爵に叙せられていたが、メディチ家は新興の商人。相手は14世紀前半から続く名門で、フランス王を輩出しているヴァロワ家の王子である。
カトリーヌとの結婚は、イタリアとの戦争で財政難に陥っていたフランスを救うためでもあった。
黄金づくめの衣装をまとい、34日間の祝宴を経てフランス宮廷に入ったカトリーヌを待っていたのは、「お店屋さんの娘」という陰口だった。
しかも頼りのクレメンス7世は、結婚の翌年に急死してしまう。後継者のパウルス3世は約束した持参金を反故にし、カトリーヌは宮廷で孤立した。
夫婦生活も悲惨だった。夫のアンリは18歳年上のディアーヌ・ド・ポワティエに夢中。当然、子どももできない。
王妃の座を守る戦い
アンリが王太子になった時、財産も子どももないカトリーヌを離縁しろという声が上がったのは必然だった。
カトリーヌはあらゆる手を尽くした。占い師に頼り、ラバの尿を飲むなど怪しい方法をさまざまに試した。
だが彼女を救ったのは、恋敵のディアヌだった。カトリーヌが叩き出され、新しい王妃が来たら、自分の立場が危うくなりかねない。
ディアヌは子作りに励めと、アンリをカトリーヌの寝室に送り込んだ。カトリーヌは結婚10年目にしてようやく妊娠し、待望の男児を得る。
一度弾みがつくと後はたやすい。カトリーヌは合計10人の子どもを産み、3人が国王になった。王妃の座は守られたのだ。
カトリック対プロテスタント 宗教戦争の時代
カトリーヌが生きた16世紀、ヨーロッパには宗教改革の嵐が吹き荒れていた。
ドイツではマルティン・ルターがカトリック教会の改革を叫んで教皇から破門され、「ルター派プロテスタント」を立ち上げた。
イングランドではヘンリー8世が、(この連載でも扱った)アン・ブーリンと結婚するために「国教会」を創設した。
スイスではカルヴァンが改革を唱え、その流れがフランスに及んで「ユグノー教徒」と呼ばれる新教徒が生まれる。
カトリック大国のフランスが、ユグノーに警戒心を抱くのは当然だ。結果、新旧教徒の衝突が起きる。
それに輪をかけたのが外国の介入だ。イングランドのエリザベス1世はユグノー、スペインのフェリペ2世はカトリックと、それぞれの国教を理由にフランスに派兵した。
カトリーヌは夫を騎馬試合で喪った後、後継となった息子のフランソワ2世を後見し、フランソワが17歳で亡くなると、シャルル9世として即位した5男の「摂政」となった。
女が摂政になるのは異例だったが、カトリーヌはほんらいその地位に就くはずだったナバラ国王アントワーヌを丸め込んで実質的な摂政になる。
一種のクーデターだった。カトリーヌはようやく、女としての不遇を補ってあまりある権力の座についたのだ。
カトリーヌは信仰より国家権力を重視した。国の安定のため、彼女はくりかえし新旧両派の融和を試みるが、ことごとく失敗する。
「黒王妃」のイメージを決定づけた聖バルテルミーの大虐殺
カトリーヌの悪名を決定的にした大事件が、1572年8月24日に勃発した「聖バルテルミーの大虐殺」だ。
カトリックとユグノーの融和を目指し、カトリーヌは王女マルグリット(旧教)と新しくナバラ国王になったアンリ(新教)の結婚式を企てた。そこに集まったユグノー教徒が、カトリック教徒に虐殺された出来事である。当該の日が聖人バルテルミーの祝日だったため、「聖バルテルミーの大虐殺」と呼ばれる。
カトリーヌは初めからユグノーの虐殺を意図していたわけではない。ユグノー側の有力者で、息子のシャルル9世が信頼し切っていたコリニー提督という人物がいた。彼は、カトリックのスペインに弾圧されていたネーデルランド(オランダ)のユグノー教徒に味方して、ネーデルランドをフランスの領土にしてしまおうとシャルルに持ちかけた。それを知ったカトリーヌは、そんな危ないことはできないと、コリニーの暗殺を計画したのだ。
カトリーヌの心配は当然だった。フランスがネーデルランドに負けて、スペインに占領でもされたらどうするのか。彼女はカトリックの大貴族ギーズ公を味方につけ、コリニーのもとに暗殺者を派遣するが失敗。事件はコリニー一派とユグノーを憤激させ、反乱計画が持ち上がる。
今こそコリニー一派を根こそぎにする時だ。カトリーヌに躊躇はなかった。シャルル9世もコリニー殺しに同意する。
だが流血はコリニー一派で終わらなかった。いつの間にか国王の命令は「ユグノーを殺せ」になっていた。カトリックの街パリに暴力の火がついた。結婚式のためにパリに集まった8,000人のユグノーは、ほぼ皆殺しになったのだ。
シャルル9世は動揺したが、カトリーヌは顔色ひとつ変えなかった。「黒王妃」のイメージはこの夜完成する。
政治家として、女王として、生まれるのが早過ぎた
結局、カトリーヌが目指した信教の自由は、カトリーヌの子どもたちが死に絶え、ヴァロワ朝が断絶し、ナバラ国王でブルボン家のアンリが国王アンリ4世となった時代に実現する(「ナントの勅令」)。
カトリーヌの悲願だった信仰の自由を実現したブルボン朝は、ヨーロッパ最強の絶対王政を謳歌した。18世紀には、ロシアのエカテリーナ2世、オーストリアの実質的な女帝マリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人という3人の女性がヨーロッパの命運を握る、華麗なる女王時代が訪れる。
カトリーヌは、生まれるのが早過ぎたのかもしれない。政治家としても、女王としても。
虚構の歴史オペラ〜マイアベーア《ユグノー教徒》
ジャコモ・マイアベーアの《ユグノー教徒》は、この「聖バルテルミーの大虐殺」を背景にしたグランド・オペラ(歴史大作オペラ)である。
1572年夏のフランス。王妃マルグリットは、新旧教徒の和解のため、サン・ブリ伯爵の娘ヴァランティーヌとユグノー教徒ラウルの結婚を画策する。
実は2人は互いに恋心を抱いていた。だがヴァランティーヌは父の意向でヌヴェール伯爵と婚約しており、伯爵と一緒にいる彼女を見たラウルは、ヴァランティーヌが伯爵の愛人だと誤解してしまう。
ヴァランティーヌはヌヴェール伯爵と結婚式をあげるが、伯爵はユグノー教徒への虐殺命令を拒否して連行される。
ラウルとヴァランティーヌは愛を告白し合い、ヴァランティーヌはラウルに従ってユグノーに改宗。従者マルセルに祝福されて愛を誓うが、押し寄せたカトリック教徒に殺される。その中にはサン・ブリ伯爵もいた。死骸の中に娘を認めた伯爵は呆然と佇む。
新旧両教徒の恋人たちが紆余曲折を経て結ばれるが、虐殺の夜がすべてを打ち砕く。カトリック側の伯爵が騒動の中で娘を殺してしまう結末は、とてもオペラティックだ。
だが、劇中で「虐殺を命じた」とされているカトリーヌが、舞台に現れることはない。
実は、カトリーヌは当初第4幕に登場する予定だったが、検閲によって削られてしまったのだ。代わって虐殺側の親玉に祭り上げられたのが、架空の人物であるサン・ブリ伯爵である。
劇中の「王妃マルグリット」の役割も、史実とはずいぶん違う。マルグリットはカトリーヌの3女で、兄弟とも関係するなど奔放な異性関係で世間を騒がせていた。愛人がいたためにナバラ国王との結婚を拒んでいたが、オペラでは新旧教徒の和解を模索する知的な王妃になっている。まるで、史実のカトリーヌのように。
「黒王妃」は消えた。19世紀のオペラで、歴史上悪名高い王侯がしばしば消されたように*。そしてその娘が、「黒王妃」の名誉回復を担ったのである。
*例えばヴェルディの《リゴレット》では、原作にある実在のフランス国王フランソワ1世の放蕩が批判され、舞台にのせることが禁じられて国や時代の設定が変えられた
【マイアベーア《ユグノー教徒》必聴アリア&二重唱】
♪第2幕 マルグリットのアリア「美しきトゥレーヌの国」: マルグリット登場のアリア。超絶技巧と高音が連発される至難の曲
♪第4幕 ラウルとヴァランティーヌの二重唱「ああ!どこへ行かれるのですか?」: 仲間のユグノーに、虐殺が始まることを伝えに行こうとするラウルと、引き留めるヴァランティーヌの二重唱。熱烈な愛の告白へと至る感動的な1曲
♪ユグノー教徒のシンボルとして、序曲をはじめ、いたる所で使われるルターの讃美歌「神は我がやぐら」の旋律もききもの
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