読みもの
2024.10.13
オペラになった歴史のヒロイン#8

《ユグノー教徒》~聖バルテルミーの大虐殺が背景のオペラ 黒幕の王妃はなぜ消えた?

オペラには、歴史に実在した有名な女性が数多く登場します。彼女たちはオペラを通じて、どのようなヒロインに変貌したのでしょうか? 今回の主人公は、メディチ家に生まれてフランス王妃となり、夫の死後は子の摂政として君臨したカトリーヌ・ド・メディシス。聖バルテルミーの大虐殺の黒幕でありながら、これを描くオペラ「ユグノー教徒」では彼女の存在が「消えて」います。史実におけるカトリーヌは、宗教戦争の時代をどのように生き抜いたのでしょうか?

加藤浩子
加藤浩子 音楽物書き

東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院博士課程満期退学(音楽史専攻)。音楽物書き。主にバッハを中心とする古楽およびオペラについて執筆、講演活動を行う。オンライン...

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カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)

フランス王アンリ2世の妃。フィレンツェの名門メディチ家に生まれ、ローマ教皇クレメンス7世の仲介でフランス王子アンリと結婚。1547年にアンリがアンリ2世として即位し、王妃となる。

 

アンリには愛人がいたが、カトリーヌは10人の子を産んで王妃の座を死守。アンリの死後は政治に介入し、息子シャルル9世の摂政として権勢を振るった。

 

宗教改革で新教徒(=「ユグノー教徒」)が台頭すると、カトリックとユグノーの融和を模索するが、ユグノーの有力者コリニー総督の反乱計画がきっかけで「聖バルテルミーの大虐殺」が勃発。カトリーヌは黒幕とされ、後々まで批判にさらされた。

 

晩年は溺愛していた息子アンリ3世との確執に悩まされた。

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「黒」のイメージが生涯つきまとった女性

16世紀は、「女王」が表に出始めた時代だった。前回取り上げたイングランドのエリザベス1世、その前代の異母姉メアリー1世、前々回のヒロイン、スコットランド女王メアリー・ステュアートはその代表格だ。

一方、フランスには「サリカ法」という法律があり、女性は王座につくことができなかった。だが王の母、「国母」として、長くフランス王国の実質的な女王だった人物がいる。

カトリーヌ・ド・メディシス。夫のアンリ2世が不慮の事故で亡くなって以来、黒い喪服を着続けて「黒王妃」とも呼ばれた女性だ。

だが「黒」のイメージは、衣装だけが理由ではなかった。14歳でフランス王子アンリに嫁いで以来、彼女には何か禍々しいイメージがつきまとっていた。

外国人、商人の娘、占い好き、陰謀好き……彼女は決して陰気な性格ではなく、むしろ社交的で陽気なたちだった。しかし身分の低さに対する反発に加え、戦乱の時代ならではの困難にさらされ、誤解され続けたことがイメージを曇らせた。そして、ある大事件の「黒幕」とされたことが……。

その「大事件」に触れる前に、カトリーヌの人生を眺めてみることにしよう。

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