読みもの
2024.09.19
連載「没後50年! 斎藤秀雄とは?」第1回(全3回)

斎藤秀雄――「サイトウ・キネン・オーケストラ」に名を残す音楽界のレジェンドの生きざま

9月18日に没後50年を迎えた斎藤秀雄(1902~1974)。小澤征爾の師であり、「サイトウ・キネン・オーケストラ」にその名を残す偉大な人物であることは知っているものの、その人物像を知る人はそう多くないだろう。
ONTOMOでは、没後50年を記念し、全3回の短期連載で特集。『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』の著者・中丸美繪(よしえ)が、その人となり、功績などについて伝える。

中丸美繪
中丸美繪 文筆家

慶應義塾大学文学部卒業。日本航空に5 年ほど勤務し、東宝演劇部戯曲研究科を経て、1997年『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(新潮社)で第45 回日本エッセイス...

写真提供:新日本フィルハーモニー交響楽団

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小澤、秋山、堤ら門下生にとっての絶対的存在

今年(2024年)は斎藤秀雄(1902—1974)の没後50年で、桐朋学園音楽部門主催の演奏会(9月18日「齋藤秀雄先生没後50年 メモリアル・コンサート」サントリーホール大ホール)や、長野県松本市では小澤征爾の追悼とともに、「チェロ・アンサンブル・サイトウ」による斎藤秀雄追悼演奏会(8月24日、松本市音楽文化ホール)などが開かれている。

多くの若い音楽好きにとって、今や斎藤がどんな人物で、先生としてなぜそんなに慕われたのかは、謎ではないだろうか。 

実は、私もそうだった。時を遡ること数十年前(いや、恐ろしく時のたつのは早い)、1987年、ドイツ在住の時、小澤征爾・秋山和慶が結成したばかりの「サイトウ・キネン・オーケストラ」がやってきたのである。その後、帰国すると、小澤は松本市で「サイトウ・キネン・フェスティバル」を始める。恩師の名前を冠するとは、その先生はどんな人でどんな教育を行なったのか、が『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(新潮社、1996年刊)の執筆動機となったわけだった。それから取材をすること5年以上で130名あまり。

桐朋卒業後の小澤征爾と斎藤秀雄(写真提供:小澤幹雄)

斎藤秀雄はとにかく厳しい言葉で叱咤する。どもったりするのに舌鋒鋭く容赦なく断定的な言葉が噴出する。

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先日(8月31日)、新日本フィルハーモニー交響楽団がすみだトリフォニーホールで「小澤征爾追悼演奏会」を行なった。秋山和慶や堤剛などが出演して演奏、トークを繰り広げたほか、テレビ番組『オーケストラがやって来た』の映像が流された。その中に斎藤が登場し、確かインタビュアーが「小澤さんのような天才をたくさんお育てになって、どんな魔法を使われてらっしゃるのでしょう?」と問いかけた。小澤が、「天才なんてー」と少し照れて話そうとすると、小澤の言葉にかぶせて斎藤が早口で機関銃のように話し出したのだ。

「天才なんてものは育てようと思って育つものではない。それは期せずして出てくるもので、魔法なんていうものもないですよ。手品だって、タネが必ずある。教育に魔法なんてもの、ありません」というような言葉だった。

その間、斎藤の隣にいたヒゲの山本直純は、いつものなんとなくとぼけた口調で口を挟むこともなく、ただただ控えていた。その映像は師と二人の弟子との師弟関係を映し出していた。小澤にとって、どんなに偉く?なろうとも、生涯、斎藤の弟子だったというのも理解できた。そこで演奏されたのはR.シュトラウスの《ドン・キホーテ》だったが、小澤は「君のはテーマを歌いすぎだ」と言われていた。斎藤伝を終えた私は、いま小澤伝を書いているが、小澤が、言葉を失い、歩けなくなった最期まで染みついたように愛して指揮したのは、斎藤から徹底的に叩き込まれた楽曲だった。

父親ゆずりの卓越した分析力、メソッド化の能力

そもそも斎藤には分析する能力が備わっていた。言葉にならない音楽を言葉にした。彼自身がいうには、父から受け継いだものは巨大な財産と、学問における理解力と分析する頭脳だという。父斎藤秀三郎は江戸末期から昭和を生きた日本英語界の巨人で、「先生にノーベル賞を!」と弟子たちから声が上がるほどだった。つまり斎藤秀雄と同じような存在だったわけだ。自ら学校(正則学園の前身)を設立したこともそうだし、一方で全国の学校で教科書として採用される200冊の文法書並びに英語・和英辞書を著した。

斎藤もまた日本では未開のチェロ奏法や指揮法に革命を起こした。戦後、ピアニスト井口基成や吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を設立すると、引き続いて桐朋学園に音楽科を設置、さらに短大、大学と拡張され、そこから世界に飛び立った弟子たちを中心にして現在の日本の音楽界が形成されていると言っても過言ではない。

チェロの弟子は戦前では井上頼豊や原田喜一、鷲尾勝郎に始まり、戦後は堤剛、安田謙一郎、徳永謙一郎、岩崎洸、倉田澄子、千本博愛、原田禎夫、倉田澄子、西内荘一、林峰男、堀了介、菅野博文、松波恵子、嶺田健、藤原真理、秋津智承、山崎伸子、木越洋ら日本チェロ界を網羅する人材を育てた。

チェリストとしてデビューした頃の斎藤秀雄 (自宅にて)

小澤征爾はこんな風に言っている。

「斎藤先生がいなかったら、僕も秋山も、たぶん岩城宏之さんも若杉弘さんも出なかっただろうと思う。いろんな先生に習ったけれども、斎藤先生みたいにとことんまで教えてくれた先生は、東洋にも西洋にもいないんですよ。西洋音楽の伝統がない日本人だから創れる音楽があると先生は考えた」

指揮者朝比奈隆と同世代の斎藤は、暁星学園小学校・中学校でフランス語を学び、留学を見据えながら、マンドリン・オーケストラ用に編曲・指揮を始めた。まもなく本格的なチェロ奏法を学ぶためにドイツに留学し、現地でドイツ女性と結婚。《ツィゴイネルワイゼン》をチェロで弾きこなす革命的奏者エマヌエル・フォイアマンに学び、帰国すると、近衛秀麿率いる新交響楽団(現・NHK交響楽団)の首席となって、同世代のチェロ奏者たちも斎藤の教えを請うようになった。さらに戦時中にドイツから常任指揮者として来日したユダヤ人ヨーゼフ・ローゼンシュトックの通訳として、副指揮者として活動、指揮には七つの基本の動きがあると分析し、それが『指揮法教程』(音楽之友社)として結実した。斎藤はチェロの生徒には「プロになるなら教えよう」というスタンスだったが、開講した指揮教室ではコーラスやアマチュア指導者にも教えた。裾野が広くないと山は高くならないとの考えである。指揮を日本から発信すべく民音主催の指揮者コンクールを創設し、現在に至っている。

1956年発行、指揮界に革命をもたらした『指揮法教程』の初版第1刷。この保存用書籍は色あせているが、カバーの色味は現行版(改訂新版)と同じオレンジ色で、タイトルは白抜き文字だった。また、このカバーでは著者名の名字表記が「斉藤」になっているが、第1刷の訂正原本には「斎藤」に変更するよう指示が入っている

厳しくも有り難い指導を受けた門下生たち

この10月、先の拙著の大幅改訂版『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』を刊行するが、ここでは指揮者飯守泰次郎によって、斎藤がワーグナー《タンホイザー》序曲をどのように解釈していたかを加筆することができた。

演奏解釈については、斎藤は日本で初めて「開発した」として自信を持っており、ピアノ科でありながら指揮を勧められた徳丸(竹前)聡子は、毎週末、小澤とともに斎藤宅を訪れてそれをまとめる作業を行なったこともある。

ちなみに斎藤は、専攻以外の演奏者になることを強引に勧めることもあった。ヴィオラの今井信子、店村眞積らがそうである。

斎藤はとにかく厳しい。遅刻は許されず、オーケストラの練習に欠席するには38度以上の熱がなければならなかったと、デビューが早かったヴァイオリニスト潮田益子は回想した。

レッスンでは激怒して眼鏡を投げつけることもあり鬼教師と恐れられたが、演奏旅行中に生徒とともに座布団取りを楽しむようなチャーミングな一面もあった
(写真提供:新日本フィルハーモニー交響楽団)

小澤はある件で一時遠ざけられていたし、飯守は破門と言われたこともあり、井上道義にはチャレンジしてこいとは言わず、「教えさせてもらっているわけじゃない。お前も小澤のようにやってこいよ」という言い方である。

指揮教室は当初自由学園で開かれ、山本直純、久山恵子、紙谷一衛らから始まり、小澤、秋山、飯守、井上、尾高忠明、小泉ひろし、黒岩英臣、大植英次らが巣立っていった。

室内楽を日本にいち早く取り入れたのも斎藤であり、子供のカルテットが演奏旅行で全国をまわった。また桐朋オーケストラの海外公演は輸出産業としてのそれだった。確かに渡米演奏公演に参加した生徒たちは北米で活躍する。ミュンヘン国際コンクール優勝で世界的注目を浴びた東京クヮルテットも、斎藤の肝入りである。ヴァイオリンの原田幸一郎は、斎藤の教育を伝えるために「十二使徒になってくれ」とまで言われている。弦楽器科の全ての生徒を斎藤は教えたのだ。

堀伝、松田洋子、安芸晶子、前橋汀子、久保陽子、松田洋子、和波孝禧ら数えきれない生徒たちが、室内楽やオーケストラを通して、または個人レッスンから斎藤の教えを学び、一流の演奏家となったのだ。

その後、渡欧演奏公演も行なわれ、これに参加した生徒らは滞欧の音楽家となった。ベルリン・フィルのコンサートマスターとなった安永徹、現・桐朋学園大学学長の辰巳明子らである。

そんな彼らを日本に呼び寄せたのが、「サイトウ・キネン・オーケストラ」だったのだ。

斎藤ほどの音楽教育家は未だ出ていないし、その後、音楽教育がグレードを上げたともなかなか感じられないのである。 

書籍情報
斎藤秀雄の生涯をより詳しく知りたい方は

『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家――音楽のなかに言葉が聞こえる』

(2024年10月4日から順次発売/現在、各ショップにて予約受付中)

没後50年を経て明かされた事実、死の間際に吐露した想い……。

日本のクラシック音楽界を世界レベルに引き上げた稀代の教育家、斎藤秀雄(1902-74)。1948年、吉田秀和、井口基成、柴田南雄らと「子供のための音楽教室」を設立(桐朋学園音楽部門開設に繋がる)。鬼教師と恐れられながらも小澤征爾をはじめとする世界的名演奏家を数多く輩出し、その教え子たちがサイトウ・キネン・オーケストラを結成。また、『指揮法教程』を著し、指揮の動きをメソッド化するという世界でも稀な偉業も成し遂げたレジェンドである。

本書は、そんな斎藤秀雄の生き様を追って約130名に及ぶ関係者に話を聞き、日本エッセイスト・クラブ賞とミュージック・ペンクラブ賞を受賞した評伝『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(1996年)をもとに、新規取材を行い大幅加筆・再構成した新著。常に理想を追求し、執念にも近い情熱をもって音楽教育に力を注いだ氏の生き様を見事に描写した決定版!!

 

『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯〈誕生~演奏家編〉』

<電子書籍> 中丸美繪 著(2024年9月18日から配信)

上記書籍『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』を大幅加筆・再構成するにあたり、生い立ちから演奏家として活動した時期までの前半(第3章まで)は割愛部分が多かったため、オリジナル版を電子書籍でお読みいただけるようにした。

中丸美繪
中丸美繪 文筆家

慶應義塾大学文学部卒業。日本航空に5 年ほど勤務し、東宝演劇部戯曲研究科を経て、1997年『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』(新潮社)で第45 回日本エッセイス...

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