リヒャルト・シュトラウスの妻パウリーネがマリッジブルー!?
大作曲家たちも、恋に落ち、その想いを時にはロマンティックに、時には赤裸々に語ってしまいました。手紙の中から恋愛を語っている箇所を紹介する、作曲家にとってはちょっと恥ずかしい連載。
第2回は、しっかり者の“姉さん女房”として知られるリヒャルト・シュトラウスの妻パウリーネの手紙を紹介します。結婚を控え、キャリアと家庭の狭間で揺れ動くパウリーネの心情は、現代にも通ずるものがありそうです。
青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。iPhone、iPad、MacBookについては、新機種が出るたびに買い換えないと手の震えが止ま...
身分の違いを乗り越えて結婚へ
もし読者の皆様が、リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)の伝記をすこしでもひもといたことがあるならば、その妻パウリーネ・デ・アーナ(1863〜1950)が、大変気丈な性格の持ち主であり、日本風に言えば「かかあ天下」として家庭を切り盛りしていたことをご存知かもしれません。
ただ、このふたりは、知り合ってから結婚するまでに、かなり長い時間を費やしています。19世紀末のドイツにおいては、かなり晩婚の部類に属していたでしょう。二人が知り合ったのは1887年。リヒャルト23歳、パウリーネ24歳、シュトラウスがミュンヘン歌劇場のカペルマイスターに就任した頃に、そのもとで研鑽を積む若手歌手、という関係でした(パウリーネはリヒャルトより1年4か月年長)。
1894年、すでに30歳を超えたパウリーネは、リヒャルトとの結婚を真剣に考え始めます。とはいえ、パウリーネは軍人貴族の娘であり、リヒャルトは裕福とはいえ市民階級の出身。身分違いの結婚となることは、いまの我々が想像する以上に、結婚を決断するためのハードルとしては高いものであったはずです。
リヒャルトが望むような妻になれるか不安になるパウリーネ
いったんは結婚を決意し、双方の両親にそれを認めてもらったものの、パウリーネはいわゆる「マリッジ・ブルー」状態になり、結婚をやめようかとまで思い詰めます。それは身分違いの結婚という以上に、歌手としての自分のキャリアを諦め、人気音楽家への道を歩みつつあるリヒャルトの妻として、充分なサポートができるのか、という不安にもとらわれていたためと想像されます。
1894年3月24日、リヒャルトに宛てたパウリーネの手紙には、その迷いが率直に、しかし溢れんばかりの愛とともに綴られています(大変長い手紙なので、以下は抄訳です)。
私の欠点がどれほど多いかは、あなたが一番よくご存じでしょう。正直に申し上げると、幸せを感じているにもかかわらず、私はときどきひどく怖くなるのです。果たして私は、あなたが望むような、あなたにふさわしい人間になれるのだろうか、と。
まずはハンブルグでの客演を果たし、少なくとも尊敬する恩師に胸を張って自慢できるような成功を収めたいのです。あなたは、私を決して過大評価してはいけないし、ご両親も私の性格をよくご存じです。
私は突然、あなたが失望しないような、模範的な主婦になれるのでしょうか。それがうまくいかないことを、私は怖れているのです。そんなに早く、結婚する必要はないのではないか。あなたがミュンヘンで、私がハンブルクで、キャリアを成功させてからでも遅くはないのではないでしょうか。
このパウリーネの「マリッジ・ブルー」は5月近くまで続くのですが、リヒャルトの初めてのオペラ《グントラム》が初演されたヴァイマールで、ふたりはようやく正式な婚約へと至りました。結婚後も、パウリーネは10年ほど歌手としてのキャリアを歩みますが、やがて息子フランツの誕生を機に、徐々に活動を縮小し、「模範的な主婦」への道を進むことになります。
パウリーネは、自分の選んだ道に後悔こそしていなかったとは思いますが、その決断が本当に正しかったのかどうか、ある種の屈折は抱え続けたのではないかな、という気はします。リヒャルトへの愛情と、自分が歩んだかもしれないキャリアとの間で常に揺れ続けたパウリーネの想いが、ときに強い口調で出てしまうこともあったでしょう。それでもこの夫婦は、1949年、85歳でシュトラウスが亡くなるまで添い遂げ、その翌年にパウリーネも後を追うように亡くなったのでした。
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