読みもの
2024.09.05
大作曲家たちのときめく(?)恋文 5通目

リヒャルト・ワーグナー「きみはわたしのすべてだ」~妻コジマに贈ったなによりも豪華な「誕生日プレゼント」

大作曲家たちも、恋に落ち、その想いを時にはロマンティックに、時には赤裸々に語ってしまいました。手紙の中から恋愛を語っている箇所を紹介する、作曲家にとってはちょっと恥ずかしい連載。
第5回は、ワーグナーの妻・コジマが受け取った素敵な誕生日プレゼントを中心に、コジマの日記から2人の心あたたまるエピソードを紹介します。

広瀬大介
広瀬大介 音楽学者・音楽評論家

青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。iPhone、iPad、MacBookについては、新機種が出るたびに買い換えないと手の震えが止ま...

イラスト:ながれだあかね

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恋多き男ワーグナーは意外と一途だった?

女性遍歴が激しい、というイメージとともに語られがちなリヒャルト・ワーグナー(1813〜1883)。もちろん、恋多きひとではあったのですが、よくよくその生涯を眺めてみると、同時に複数の女性を追い求めていた時期というのは少なく、人生の折々で、ひとりの女性を熱烈に追いかけたことが多いとわかります。女優ミンナ・プラーナーを追いかけ続け、ついに結婚したというエピソードは、ベルリオーズとハリエット・スミッソンのなれ初めを彷彿とさせます。

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その後、人妻であったマティルデ・ヴェーゼンドンクなど、自身と話を合わせることのできる知性の持ち主に惹かれ、ミンナとの結婚生活は危機に瀕します。1862年以降、ワーグナーは芸術家としての輝きを失ったミンナと別居生活を続けますが、ドレスデンに住み続けたミンナが1866年に亡くなるまで仕送りを続け、離婚することはありませんでした。

ミンナ・プラーナー
マティルデ・ヴェーゼンドンク

そんなワーグナーが、人生の最後に巡り会った運命の女性が、コジマ・リスト(1837〜1930)でした。名前からおわかりのとおり、父親はかのフランツ・リスト。コジマは1857年に、ワーグナーを崇拝する指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚し、すでに二人の子どもを成していました。

コジマがワーグナーと巡り会ったのは1862年のこと(1853年、子どものときに一度会ってはいますが)。1865年に生まれた長女イゾルデは、対外的にはビューローとの子とされていましたが、実際にはワーグナーとの子でした。続けざまに1867年に次女エーファ、68年に長男ジークフリートを出産するに及び、世間の目をごまかせなくなり、ビューローと離婚し、ワーグナーと再婚します。

コジマ

コジマがもらった愛情のこもった誕生日プレゼント

ワーグナーという圧倒的な才能の持ち主と生活をともにする、ということがいかに特別なことか、そしてそのようなひとと人生をともにするのがいかに幸せなことか、コジマはそれを痛感するとともに、そのような天才のありようを後世に遺しておくべき、一種の義務を感じていたのでしょう。結婚の前年から記録が始まった『コジマの日記』は、ワーグナーが亡くなる1883年まで、まさに一日も欠かさずに執筆が続けられました。

現在、この『日記』は全訳のプロジェクトが進行中で、現時点では第3巻、1869年1月から1873年4月までが出版されています(『リヒャルト・ワーグナーの妻 コジマの日記』、三光長治、池上純一、池上弘子訳、東海大学出版会)。

ここまでのエピソードでもっとも有名なそれといえば、やはりなんといっても《ジークフリート牧歌》の初演でしょう。コジマの誕生日は、クリスマス・イヴの12月24日。1870年の翌25日、クリスマスの早朝、ワーグナーはスイス・ルツェルン近郊、トリープシェンの自宅に音楽家たちを集め、コジマの眠りをこの音楽で覚ますべく、入念な準備を重ねました。ピアニッシモから始まり、少しずつ膨らんでゆくこの音楽に気付いたコジマの驚きと歓びは、自身の言葉で語ってもらうのが一番でしょう。

子供たちよ、この日のことは、わたしが感じたことも、わたしの気分も、何ひとつ言葉にできません。事実だけを淡々と書き綴ることにしましょう。目を覚ましたわたしの耳に飛び込んできた響き。どんどん膨れあがってゆくその響きは、もはや夢の中のこととは思えません。鳴っていたのは音楽、それもなんという音楽でしょう。それが鳴りやむと、リヒャルトが五人の子供たちを連れてわたしの部屋へ入ってきて、「誕生祝いの交響楽」のスコアを手渡してくれたのです。わたしは涙にかき暮れ、家じゅうが涙につつまれました。リヒャルトは階段にオーケストラを配置して、わたしたちのトリープシェンを永遠にきよめたのです。曲の名は《トリープシェン牧歌》。

(1870年12月25日、日曜日、『コジマの日記』第2巻、274〜275頁)

これほどに愛情のこもった誕生日プレゼントをもらえるひとなど、空前にして絶後でしょう。心からコジマのことがうらやましい、と思えてしまいます。のちに資金繰りに苦しむワーグナーは、このときの曲を《ジークフリート牧歌》という題名によって出版します。ふたりの神聖な秘密を公にされたかのような気がしたというコジマにとって、この出版は不本意なものだったと云われます。

ワーグナー:《ジークフリート牧歌》

コジマとすごす何年かは賜物

リヒャルトにとっては、コジマの支えがなければ、途絶していた《ニーベルングの指環》の作曲も、そしてこの後に続くバイロイト音楽祭の立ち上げも、すべていまのようなかたちで成立することはなかったでしょう。とはいえ、このようなふたりの結びつきは、ビューローという犠牲を払って得たものでもあり、コジマは常に罪悪感を持ち続けてもいたはずです。年が明けた後、ワーグナーはコジマにこんなことをささやいてもいます。

1872年のリヒャルトとコジマ夫妻

昨晩、わたしは熱があり、眠れなかった。リヒャルトはわたしのそばに来て、こう言った。きみはわたしのすべてだが、きみ自身はそのことに気づいていない。きみからもらっただけのものを、きみに返すことはできない。こうしてすごす何年かはきみの賜物(たまもの)だ、と。

(1871年1月7日、土曜日、『コジマの日記』第2巻、294頁)

スイスのルツェルン近郊トリプシェンにある《ジークフリート牧歌》初演の地となった邸宅。現在はリヒャルト・ワーグナー記念館としてワーグナーの私物や楽譜が展示されている。
広瀬大介
広瀬大介 音楽学者・音楽評論家

青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。iPhone、iPad、MacBookについては、新機種が出るたびに買い換えないと手の震えが止ま...

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