読みもの
2025.01.17
大作曲家たちのときめく(?)恋文 9通目

ショスタコーヴィチ「いつもあなたのことを考えています」〜交響曲に隠れたピアニストの名前

大作曲家たちも、恋に落ち、その想いを時にはロマンティックに、時には赤裸々に語ってしまいました。手紙の中から恋愛を語っている箇所を紹介する、作曲家にとってはちょっと恥ずかしい連載。
第9回は、ショスタコーヴィチが想いを寄せたアゼルバイジャンのピアニスト、エルミーラへの手紙を紹介! ある曲の楽譜を書いて想いを告げたり、交響曲に名前を忍ばせたり……音楽家同士ならではの愛のやりとりに注目です。

増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

イラスト:ながれだあかね

この記事をシェアする
Twiter
Facebook

「交響曲第10番」に秘められたアゼルバイジャンのピアニスト

ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」は謎めいた曲だ。作曲者はこの曲の内容について、「人間の情熱と感情を表現しようとした」というような説明しかしていないが、1953年、独裁者スターリンの死後はじめて発表された交響曲だし、なにしろショスタコーヴィチのイニシャルを音名に読み替えたDSCH音型が出てくる曲なので、さまざまな憶測を呼んできた。

続きを読む

有名なのは、ソロモン・ヴォルコフの偽造したショスタコーヴィチの回想録の中にある「第2楽章はスターリンの肖像である」という話だ。これは別に根拠があるわけでなく、正直「そうだったら面白いしすっきりするなあ」程度の与太話なのだが、意外に今でも信じている人はいる。たぶん、面白いしすっきりするからだろう。

これに対して、第3楽章に出てくる「ミーラーミーレーラー」というホルン信号が、エルミーラという女性の名前を表す(E-La-Mi-Re-A)という話はどうも本当らしい。エルミーラとは、アゼルバイジャンのピアニストで、作曲家でもあったエルミーラ・ナジーロヴァ(Elmira Nazirova、1928~2014)のことだ。

ショスタコーヴィチ:交響曲第10番~第3楽章
ムラヴィンスキー指揮 レニングラード・フィル

エルミーラは、1942年、14歳でアゼルバイジャン作曲家同盟への加入を認められるほどの天才だった。1947年秋、彼女はモスクワ音楽院に進み、ヤコフ・ザークにピアノを、そしてドミトリー・ショスタコーヴィチに作曲を学ぶ。しかしわずか数か月後の1948年2月、「ジダーノフ批判」が起こり、ショスタコーヴィチは当局から厳しく批判され、「危険人物」となってしまった。

1948年、エルミーラはミロン・フェルという医学生と結婚する。その後彼女はモスクワを離れてバクーに戻り、アゼルバイジャン音楽院で勉強を続けた。この時期、ショスタコーヴィチがバクーを訪れたり、エルミーラがモスクワを訪れて、二人が会う機会も何度かあったようだが、エルミーラは彼の態度に特別なものを感じたことはなかったという

ある名曲の楽譜を書いて愛の告白!?

エルミーラがショスタコーヴィチから最初の手紙を受け取ったのは、1953年4月4日だった。《前奏曲とフーガ》の初版に誤植があるということを伝える内容だった。これをきっかけに、ふたりは文通を開始する。なお、手紙はほぼ現存するが、まだ出版されていないので、以下の引用は、ふたりのやりとりを紹介する論文などからの孫引きだ。

最初の手紙から2か月後、6月21日の手紙の一番下に、ショスタコーヴィチは短い楽譜を書いた。それは、チャイコフスキーの歌劇《エフゲニー・オネーギン》のレンスキーのアリオーソ「あなたを愛しています」だった。エルミーラがどう返したかはわからない。

チャイコフスキー:歌劇《エフゲニー・オネーギン》~レンスキーのアリオーソ「あなたを愛しています」
セルゲイ・レーメシェフ(t) ボリス・ハイキン指揮 ボリショイ劇場o.

ただ、ニーナ夫人がまだ存命中だったこともあるだろう。彼は、二人の関係がいずれ行き詰まるであろうことを予感していたようだ。7月29日の手紙にはこんな言葉がある。「私たちの道はいつか交わるだろうか? おそらく決して交わらないだろう。あまりにも多くの理由がある

ともあれ、この時期、ふたりは頻繁に会っていたようだ。彼らはいっしょに長い散歩をしたり、ベートーヴェンやマーラーの交響曲を聴いたり、音楽や人生に関するさまざまな問題について話し合った。ショスタコーヴィチはエルミーラに新作の作曲について提案したり、自分の作品について話したりもした。

8月29日の手紙では、彼女の作曲と演奏活動にアドバイスをしている。「偉大なピアニストであることを活かして、素晴らしい作品をたくさん演奏してください。そして、それらから借りることを躊躇しないでください。そうすれば、あなたは偉大な作曲家になるでしょう。借りるのであって、コピーするのではないことを忘れないでください。そこには大きな違いがあります。偉大な巨匠たちの秘密を理解し、発見するよう努めてください

7月25日の手紙で、ショスタコーヴィチは、エルミーラに対する自分の気持ちを、人生で「もっとも重要な出来事と書いた。そしてこの手紙で彼は、「交響曲第10番」の作曲に着手したことも知らせている。その後、彼は作曲の進行を逐一彼女に報告する。8月10日の手紙で彼は、第3楽章の音楽を夢の中で「見た」、より正確には「聴いた」ことを書いた。

エルミーラが、彼が音楽に彼女の名前を織り込んだことを詳しく説明する手紙を受け取ったのは、その11日後のことだった。ショスタコーヴィチはこんなことも書いている。「私のとるにたらない楽譜に書いてあろうがなかろうが、私はいつもあなたのことを考えています

12月28日、モスクワ音楽院大ホールで行なわれたこの曲のモスクワ初演に、ショスタコーヴィチはエルミーラを招待した。ショスタコーヴィチはエルミーラを席までエスコートし、彼女の近くに座った。エルミーラは、演奏中ずっと作曲家が自分に視線を向けているのを感じていたという。

エルミーラのその後

しかし、彼らのやりとりは次第に減っていく。1953年、ショスタコーヴィチは27通の手紙をエルミーラに送ったが、1954年は5通、1955年と56年は、それぞれ1通だけだった。1956年9月13日付の最後の手紙で、ショスタコーヴィチは、二番目の夫人マルガリータ・カイノワとの結婚を彼女に伝えている。

エルミーラはその後、作曲家としては、フィクレト・アミロフと共同作曲の《アラビアの主題によるピアノ協奏曲》、3つのピアノ協奏曲やヴァイオリン、チェロ、ピアノのためのソナタなどを書き、ピアニストとしてはニコライ・アノーソフ、ナタン・ラフリン、エフゲニー・スヴェトラーノフといった名指揮者たちと共演するなど、1990年にイスラエルに移住するまで、アゼルバイジャンを代表する音楽家、教育者として活躍した。

アミロフ&ナジーロヴァ:アラビアの主題によるピアノ協奏曲

ショスタコーヴィチとの関係についてはずっと沈黙していたが、イスラエルに移住する直前に、弟子で音楽学者のアイダ・フセイノヴァを呼び、ショスタコーヴィチからの手紙を見せて、彼との関係を明かした。エルミーラが亡くなったのは2014年のことだ。

実際のところ、二人の関係がどこまで進展したのか、たとえば結婚を考えるようなことがあったのかはわからない。ただ、ショスタコーヴィチの晩年までときどきは連絡を取っていたようだし、エルミーラはショスタコーヴィチのことをずっと敬愛していたから、良い思い出ではあったのだろう。このような経緯を知ると、ショスタコーヴィチが交響曲第10番について述べた「人間の情熱と感情を表現しようとした」という説明も、多少違った意味に感じられてくる。

参考文献
A New Insight into the Tenth Symphony of Dmitry Shostakovich, Nelly Kravetz
, Shostakovich in Context(Rosamund Bartlett(ed.)) p.159-174
Shostakovich’s Tenth Symphony The Azerbaijani Link – Elmira Nazirova, Aida Huseinova, Azerbaijan International Spring 2003
https://www.azer.com/aiweb/categories/magazine/ai111_folder/111_articles/111_shostokovich_elmira.html

増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

ONTOMOの更新情報を1~2週間に1度まとめてお知らせします!

更新情報をSNSでチェック
ページのトップへ