指揮者・茂木大輔が目指すリーダー像~オーケストラという社会が幸福になるためには
社会の縮図にもなぞらえられる「オーケストラ」。複雑な人間関係や、団体行動ゆえの規制・規律で不自由なことも多いのに、なぜオーケストラをやりたい人の数は増え続けているのでしょうか?それは、合奏が絶対的な幸福感を与えてくれるから。その幸福感を維持し、高める指揮者の役割は重大です。N響の首席オーボエ奏者から指揮者に転身した茂木大輔さんが明かす、そんな楽団員と指揮者の関係性の真実とは……。
国立音楽大学でオーボエを丸山盛三氏に師事。山下洋輔トリオに衝撃を受けつつ1981年草津でミュンヘンへの電撃留学が決定。G.パッシン教授に師事。渡独後、バンベルク響など...
オーケストラは社会そのもの
「社会の窓」についてならいろいろな失敗談を1時間ほど語れるのだが(オーケストラでも指揮でも、舞台に出て行く直前、最後に確認するのは社会の窓であることは変わらない)、社会学……となると、最近読んだクリスチャン・メルラン氏の本(『オーケストラ 知りたかったことのすべて』みすず書房)で語られる「労働者」としての楽団員のストレスや、それがハイドンの宮廷楽団の頃からあまり変化がない、という歴史などが思い浮かぶばかりである。
60歳の定年退職をきっかけに専業指揮者として第2の人生を歩き出して4年、プロアマ音大子ども合唱オーケストラ吹奏楽、いろんな団体を指揮してきて思うことは、「みなさん、本当に一生懸命!」「ああ、(遅刻やアクビや途中退席しないようにするだけでも)大変ですね!申し訳ない!」と、「前世」の自分を含む楽団員を心から褒めて差し上げたい、ということ。(自分のような)「ヒドイ?指揮でも暴動が起きない」というだけでも感謝だが、単純に、美しいメロディひとつ吹くにしても、好きなように気持ちよく自由に、ではなく、音程音量ニュアンスタイミングリズム感様式感指揮者の顔コンマスの顔、振り返って睨むチェロの先輩など、いろんなことにめっちゃ配慮して恐る恐る?吹くのがオーケストラ(オケ)であり、まさに「集団行動」そのもの。
上記のように、時間に正確に行動するのもそうだし、並び方座り方から、必然的にどの団体でも起きてくる人間関係のいろんなアレコレやアレコレも、複数以上の人間が一つの集団作業をする場合に必ず起きる「規制」「規律」がオーケストラの本質のすぐそばにある。オケと社会の関わりを社会学とするなら、オケ自体が社会であるという「社会の社会学」が成立しそうな勢いである。
規律が不自由でも合奏の楽しさはやめられない
それでは、そんな不自由な趣味?はやめてしまえ、と思うのだが、少なくとも日本国内では、オーケストラや吹奏楽、合唱をやりたい、という人の数はどう考えても爆発的に増え続けており、どうも「集団演奏は楽しい」という非常に単純明快な方向性が見えているのだ。自分の過去を振り返っても、中学で合唱、高校で吹奏楽、音大でオーケストラ、プロのオケの現場、留学してドイツのオケ、N響と続けてきたのは、ひとえにそれがとても楽しい、というか、ぜひともやりたい、やり続けたい仕事だと感じていたからである。
メルランの本でもそうした「夢見る音楽青年」がオーケストラの入団試験を受けてデビューするまでの幸福感は理解されている。
何が楽しいと言って、自分一人では絶対できない音楽、それも本当に素晴らしい、美しい、かっこいい、感動的な音楽の一部になれている、ということがまず第1で、自分の吹くドレミが、フルートやクラリネットやバスーン、チェロやたくさんの弦楽器、ハープなどと重なった時に出現する美しい音は、自分の価値を何十倍にも上げてくれる奇跡として感じられていた。オーボエを一人で、自宅で吹いていたとしてもまあそこそこ楽しいだろうけれども、これらの現象がなかったら何十年もやっていたとは思えない。
合奏幸福を損ねる大問題~人間は、飽きる動物である
次に、作品。ブラームスやマーラーやベートーヴェン、ことにモーツァルトとバッハの音楽には、途轍もない魔力があって、こりゃあ聴いたってもちろん凄いわけですが、上記のような合奏効果にこれらの作曲魔術が加わると、もう病みつきになってしまうわけですね〜。ことに、自分の楽器の効果が存分に発揮できてお客さんにも聴いてもらえるような場面のことを、我々は「美味しい」箇所、と呼んでいるのだが、文字通り、そこをモリモリと食べたくなってしまうような食欲が、ブラームスの「交響曲第2番」とかマーラーの「交響曲第1番」には満載されているわけであります。
ブラームス「交響曲第2番」(トラック5~8)
マーラー「交響曲第1番」
今、指揮台にいてプロアマ音大……のオケを見渡していると、顔や言葉に出さなくとも、それぞれの楽器の「美味しいところ」を楽しみに、モジモジと座っているのが伝わってくる。これはヴィオラのような弦楽器でも同じで、「集団モジモジ」が起こっている(コントラバスもです)。ついにその場所が来ると、実に気持ちよさそうに弾いておられる姿が心地よい。逆に、その場所のちょっと前でリハを止めたりすると、「集団ガッカリ」現象が起きていて申し訳ない。
こうした合奏の美味しさ、というものは、やはり、出ている結果が美しかったり作曲家の意図にかなった真実味や深みを湛えていればいるほど「増量」されることは間違いなく、逆に、雑な演奏や技術の稚拙な音というのは、集団の合奏幸福を損なってしまうという危険があるのだ。
これはひっくり返せば「自分(の音)が全員の楽しみモリモリをぶっ壊す危険がある」という「プレッシャー」や、最初に書いたような演奏上の不自由?な「規制」(自己規制を含む)感覚に繋がっていくのは言うまでもない。プレッシャーは、個人差はあると思うが、怖いもの知らずのビギナーよりも、良い演奏会を繰り返した体験をもつ奏者により深く襲いかかってくるところがあり、つまり「理想が高くなる=自分でプレッシャーをかける」ようになる。
これはなぜか?回数を重ねて慣れた方が楽に演奏できるはず?という疑問を持たれることもあると思うのだが、実は、メルランの本でも繰り返し触れられているように、「人間は、飽きる動物だ」ということが非常にヤバいのである。すなわち、「前回と同じ演奏」では満足できず、より深く、美しく、より楽譜(作曲家の意図)に精密に寄り添って、ホールでも素晴らしく響く演奏……などと「次のステージ」を目指してしまうのが演奏家のみならず人間のサガというものなのだ。オケに入って数年は次々素晴らしい作品がいろんな指揮者と演奏できてハッピーなのだが、10年も経つと曲にも指揮者にもすっかり飽きてくる、というのはプロアマ問わず体験されていると思う。
指揮者への果てしない希求
以前、まだ20代の頃、タモリさんとお食事をご一緒したことがあったのだが、その席上で「ドイツでバッハをやっていると、年に数回、神が降りてきたような演奏になっていると感じることがあります」とお話ししたところ、「それは素晴らしいですね……でも……もしかしたら、この先、その回数は次第に減っていくかもしれません。本当にうまく行った、と思うことは、僕などは今、数年に一度ですよ。それでも、演奏を続けてくれるかな?」「いいとも!」という、世にも不思議な謎めいた会話をしたことがあった(後半はフィクションです)。
それがずっと印象に残っていたのだが、N響を退職する頃には本当にその通りになっていた(拙著『交響録 N響で出会った名指揮者たち』[音楽之友社刊]では、強いインパクトを受けた名指揮者たちを共演年代順に並べたのだが、自分が歳を経るごとに減っていったのが象徴的)。サヴァリッシュやシュタイン、スクロヴァチェフスキなどと演奏していたような交響曲を他の誰かと演奏しても完全には納得することはなかったし、デュトワのフランス音楽、プレヴィンのモーツァルトなどは、もしかしたら一生超えられない演奏スタンダードを楽員全体に残しているように感じられる。
N響29年。元首席オーボエ奏者にして人気エッセイスト、しかも指揮者としての顔をもつ著者が、N響で共演した巨匠・名指揮者との思い出を綴った渾身の一作。
音楽を介して数々の名指揮者たちと濃厚な時間を過ごしてきた著者が、自身の記憶の濃さを基準に34名+約110名を厳選。聴く側ではわからない指揮者一人ひとりの個性、仕事ぶり、普段の姿、また、現在指揮者として活躍する著者からみた彼らの技量……を卓抜な文章センス(=茂木節)で表現。共演の感動や熱い想いを、読者も自らの聴取体験と重ね合わせながらしみじみと味わえる。さらに、N響団員の日常を描いたコラム、各章末のイラストには思わずほっこり。(定価2,200円 音楽之友社)
この停滞感を払拭してくれる唯一の(?)希望は素晴らしい指揮者との(新たな)出会いなのだが、このヤバい性質は容赦なく新人?指揮者という存在にも向けられる。若手の指揮者にとってはとんでもなく高いハードルが、毎日高くなり続けているようなものと言えるだろう。そこを飛び越えて歓迎される天才も次々出てくるのがまた面白いのだが。
そこに至る道は、音楽の本質と人間の本質の交わる場所にしかなく、楽譜にも記号にも技術にも、完全な正解は書かれていないだろう。まるで、第9交響曲の歌詞のごとく、「星空のテントの向こう側(見えない)に神の姿を探そうではないか!友よ!」という思いである。しかし、音が鳴り響く時、指揮者も楽団員も実はすでにその見えない正解のすぐそばにいる。巨匠でなくとも、その扉を開く鍵は全員が持っている。そんな思いをオーケストラと共有できる指揮者を目指したい。
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