音楽を奏でる絵#1 ルノワールから聞こえる パリの音楽社交界
西洋美術の歴史の中から音楽の情景が描かれた作品を選び、背景に潜む画家と音楽の関係、芸術家たちの交流、当時の音楽社会を探っていく新連載がスタート! 第1回はルノワール。今からちょうど150年前に開催された「第1回印象派展」を皮切りに、音楽と美術の親密な交流から生まれた3枚の絵をご紹介します。
桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学ピアノ科(江戸京子氏に師事)を経て、コロンビア大学教養学部卒業(音楽、美術史を専攻)。マンハッタン音楽院でピアノ、イエール大学大学...
ルノワール、モネ、ドガ、ピサロ、セザンヌら31人の芸術家たちが、アカデミックなサロン(官展)から独立してグループ展を催した。「印象派」という名前がそこで誕生したのが1874年。
万国博覧会の開催(1867年)、普仏戦争とパリ・コミューン(1870-71年)などを経た時代。鉄道が発達して郊外に出かけもしたが、大改造で変貌するパリの景観、大通り、広場、橋は画家たちを惹きつけた。劇場も都会の近代性を物語るものとして、好んで取り上げられる。
1.「桟敷席」~劇場のざわめき、音楽の余韻が聞こえてくるような……
第1回印象派展でルノワールが出品したうちの1枚が「桟敷席」。正装の白黒が画面を広く占める中、女性の白い肌と真珠の光沢、胸元のコサージュ、髪飾りと唇の薔薇色が絵に艶を出す。
ルノワールは美術学校へ入学する前から近くのルーヴル美術館に通い、ルーベンスや18世紀ロココを代表するブーシェやフラゴナールの絵画を模写した。優美で柔和な女性像への敬愛は、ルノワールの筆使いや個性の根底を成すものだろう。
さらに遡る少年時代、ルノワールは教会の合唱団で歌っていた。その時に指導をしたのは、後に歌劇《ファウスト》で有名になるシャルル・グノー。ルノワールの声と音楽の素質を見込んで、合唱ではソロを受け持たせ、興味があればオペラ座の合唱団に推薦するとまで言ったという。ルノワールは声が響く劇場の雰囲気も好きだったであろう。
▼シャルル・グノー《ファウスト》
オペラグラスを手すりに置き、絵を見る者を直視するような女性、かたやオペラグラスとともに客席を見渡す男性。女性の黒と白の縞模様のドレスと男性のイヴニング服の黒白が一体化している一方、見られ見るといった2人の視線は違う方向に離れていく。
観客が注目する舞台上で演じられる劇や音楽のみならず、劇場内でもドラマが繰り広げられているとルノワールは言いたげだ。上演前や幕間の高揚感とざわめきが、声や音楽の余韻とともに聞こえてきそうだ。
2.「アルトマン夫人の肖像」~描かれた歌手は音楽出版社長夫人
この第1回印象派展でルノワールの風景画を購入したのは、ジョルジュ・アルトマン。パリで音楽出版社を設立し、当時の新作を世に広めた重要な音楽編集者だ。
彼はルノワールに、妻で歌手のルイーズ夫人を描くよう依頼した。ブルジョワ社会の婦人たちの中には、結婚を機にプロ活動を控えた才能の持ち主もいた。
楽譜が積まれた大きなグランドピアノの左端に、譜面を見て弾く若い女性が描き込まれている。前奏が始まり、夫人が声楽曲を歌い出す前のようだ。
淡い色調の印象派らしくない画面かもしれないが、黒一色で襞が大きく広がるドレスは、高級服店ウォルトのデザイン。「色彩の女王は黒だ」とも述べていたルノワールは、流行のファッションを前面に出している。
大きなグランドピアノとともに主調色である黒は、夫人の顔と手、ブラウスの白との対比が鮮やかだ。画面には見えないピアノ鍵盤の白黒を彷彿とさせる。
ジョルジュ・アルトマンは、音楽編集者としてビゼー、ラロ、サン=サーンス、マスネらを含む多くの作品を出版した。
彼自身、アンリ・グレモンというペンネームでオペラの台本を書き、マスネ《ウェルテル》の台本執筆者の1人だった。ここで描かれているモデルから、当時パリで創作された曲が世に出るように尽力した人物に想いを馳せるのも楽しい。
3.「ピアノに向かうイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロール」~音楽社交界に咲いた花
ルノワールの絵で当時の音楽社交界を物語るのに、興味深い広がりを見せるのは「ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル」。
描かれている姉妹の父アンリ・ルロルは画家、蒐集家で、背景に飾られているのはドガの「レースの前」と「ばら色の踊り子たち」。ルロルはヴァイオリンを弾き作曲もする音楽愛好家で、「オルガン・リハーサル」という大作を描いている。
ルロルの妻は歌とピアノを愛し、その妹は《詩曲》で有名なエルンスト・ショーソンと結婚していた。邸宅にはダンディ、デュカスらの音楽家が集い、ドビュッシーもとくに1890年代、ショーソンとルロルの擁護を受けている。
▼ショーソン《詩曲》
ルロル邸にはドガ、ルノワール、ルドン、ド・シャヴァンヌなどの絵画が飾られ、ボナールやドニなどナビ派の画家、マラルメ、ジッド、ヴァレリーなど象徴派の詩人や作家らも交えて芸術談義がなされただろう。
そのような中で、音楽家は新作を試演することも多かった。多様な美学が論じられた空気に身を置いたドビュッシーが、印象派に一括りされることを好まなかったのも頷ける。
鍵盤を弾いているのが姉のイヴォンヌ。ドビュッシーが1894年に作曲したものの、生前未出版であったピアノ組曲《(忘れられた)映像》を捧げた女性である(他のピアノ曲集や管弦楽作品ですでに付けられていた《映像》と混同しないよう、1977年に《(忘れられた)映像》として出版された)。
▼ドビュッシー《(忘れられた)映像》
ドビュッシーはこの3曲の小品集の献辞に「これらの曲は煌びやかなサロンは相応しくなく……ピアノと自身との間の“対話”なのです。素敵な雨の日に、己の繊細な情緒とともに奏でるのもよいでしょう」と記している。
そして2曲目には、「ルーヴルの想い出といった少し古風な肖像画の趣のような、厳かでゆったりとした優雅さを伴うサラバンドの動きで」と記している。美の殿堂ルーヴルの古雅な情緒を共有したいという作曲家の思いが伝わる。
その後1901年にわずかに変更し、《ピアノのために》の2曲目「サラバンド」に転用した。
▼ドビュッシー《ピアノのために》~「サラバンド」(姉イヴォンヌに献呈された)
この小品集をイヴォンヌに献呈した1894年に、ドビュッシーは歌劇《ペレアスとメリザンド》にも取り組んでいた。その楽譜の一部とともに「メリザンドの妹のごとき、イヴォンヌ様へ」と書き添え、花鳥が描かれた和紙製の扇子を贈っている。
いっぽう赤い服の妹クリスティーヌ・ルロルには、叔父ショーソンが短いピアノ曲《風景》作品38を、1895年に献呈している。
▼ショーソン《風景》作品38(妹クリスティーヌに献呈された)
これらのピアノ曲が献呈された姉妹をルノワールは描き、死ぬまで手元に置いていた。
優雅で感受性豊かな姉妹は、ルロル家を訪れたアーティストたちのミューズであった。ルノワールやドビュッシーも、麗しき花のオーラを絵画や音楽作品として不朽なものにしている。
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