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2021.01.14
今世紀初! ヴェルディの名作《オテロ》のスタジオ録音

スター歌手カウフマンが作り出す「伝統」を超えたオテロの姿

押しも押されぬオペラ界のスーパースター、テノール歌手のヨナス・カウフマンを主演に迎えたスタジオ録音版ヴェルディの《オテロ》。オペラも映像録画が主流となった現代、ライブではなく、時間をかけたスタジオセッションを行なうことは非常に珍しくなりました。今世紀初となる《オテロ》のスタジオ録音にかけるカウフマンが語るこのオペラの魅力、そしてスタジオ録音の意義。CD発売記念の記者会見からお伝えします。

井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

Photo ©Musacchio, Ianniello & Pasqualini

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オペラの金字塔《オテロ》に久しぶりのスタジオ録音が誕生

オペラの長い歴史でもヴェルディが作曲した《オテロ》は、一つの到達点として輝く傑作です。シェイクスピアを原作にボーイトが書いた台本は、軍人として成功したオテロが新妻デズデーモナの不義を疑い、ついには恐ろしい悲劇がおこるまでを心理劇として見事に描き、そこにヴェルディが書いた音楽は驚くべき劇的効果をもっています。それだけに、主人公のオテロ役を歌うのはテノール歌手にとって大きなチャレンジとなります。

オペラ界のスーパースター、ヨナス・カウフマンがこの役にデビューしたのは2017年、英国ロイヤル・オペラで音楽監督のアントーニオ・パッパーノ指揮、キース・ワーナー演出の舞台でした。オペラ・ファンや批評家たちはカウフマンの歌うオテロに熱狂し、この公演は映像でも残されています。

そして、今回ソニークラシカルから発売されたのは昨年ローマでスタジオ録音された《オテロ》です。ライブの舞台収録が多い昨今、ディスクのためにわざわざスター歌手たちを集めるスタジオ録音は実現が難しく、《オテロ》のような有名な作品でも今世紀に入っての録音は初めて。パッパーノが手兵の聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団と合唱団、そして児童合唱団を指揮して、いきいきと躍動する音楽作りが実現しています。

カウフマンのオテロは、なんといっても性格づくりが緻密。特に第一幕最後の愛の二重唱、第三幕のデズデーモナの不義が確定した(と思った)時の嘆き、そして第四幕で彼女を殺してしまった後のモノローグなどにおける弱音での表現は、スタジオ録音ならではの素晴らしさ。一方でドラマチックな表現も、第1幕の登場の「喜べ!」における力強く、また正義感に溢れる第一声から、第2幕の最後のヤーゴとの有名な二重唱「大理石のような天に誓う」なども迫力たっぷりです。

このディスクが発売(日本盤は発売日未定)される機会に、パッパーノ、カウフマンが参加する記者会見が開かれました。コロナの時代を逆手にとったオンライン記者会見で、音楽ジャーナリストで司会を務めたアンドレア・ペンナ氏はローマから、パッパーノはロンドンから、カウフマンはミュンヘンの自宅から参加。

この会見はイタリア語で行なわれました。パッパーノもカウフマンも流暢なイタリア語で応答。とくにカウフマンは《オテロ》について語りたいことが一杯! という感じで、ペンナ氏の質問にどんどん答えていきます。2人の言葉の中から、ヴェルディの名作の魅力、そして今回の録音を楽しむヒントを探ってみましょう。

上段左からアントニオ・パッパーノ、ヨナス・カウフマン、下段は司会のアンドレア・ペンナ。

カウフマンが考えるオテロが悲劇に至った2つの理由

——あなたのオテロ像はどのような人物でしょう? 厳格な戦士? 戦争ばかりしていたのですからあまり柔軟ではないですよね? 愛情については、深く愛しすぎて裏切られたと感じている? 彼は自分の感情をコントロールできない、傷つきやすく、御し易い男だったのでしょうか?

カウフマン オテロはそれらをすべて、少しずつもっていると思います。英雄であり、戦士であり、戦いを制御することは知っていた。でも、僕の印象ですが、第1幕最後の愛のデュエットで、オテロは優しい言葉を言おうとするけれど、それらはすべて戦争の状景からとられているのです。男女の愛の言葉としてはかなり奇妙に響きます。僕が思うに、彼の感情、彼が思い出せるものはそれだけだったのだと。戦いだけが彼の人生だったから。

この悲劇が起こったのには2つの理由があると思います。ひとつはここで描かれている社会の中で、戦士である彼が高い地位に昇ることができたのは、彼が何度もヴェネツィアに勝利をもたらしたからだ、ということ。この成功が社会に入るための鍵だったのだと。彼が完全に受け入れられていたと感じていたとは思いません。でも、地位があったからこそ、この女性を妻にできた。シェイクスピアを読めば、彼らの結婚にはかなりの困難がともなっていたことがわかります。彼女は親から逃げてきているのですから。

デズデーモナはオテロにとって、この世でもっとも白く、もっとも純粋な存在で、彼の成功の象徴だったということ。彼女が堕ちれば彼の世界は崩壊する。それゆえに、彼女との関係は彼にとって非常に重要だったのです。

19世紀スペインの画家アントニオ・ムニョス・デグラン作「オテロとデズデモナ」

カウフマン ふたつ目は、彼がストレンジャーであったということです。肌の色(オテロはムーア人という設定)は重要ではありません。宗教も教育も、彼がどこからきたのかということも重要ではない。明白なのは彼が、他の人たちの一員ではなかったということ。これは今でも難しい問題です。現代においても問題は解決していないのです。

今だって残念ながらこのような結末をむかえてしまうことがあります。僕は役を演じるときにはいつでも、説得力があるようにと努めます。自分自身が信じられる動機を求める。ある結末にいたった理由を探すのです。

オテロにとって、妻の死は彼の死でもある。彼のキャリアの終わりであり、人生の終わりなのです。災いの中で生き続けるか、もしくは名誉を重んじて、彼女と共に人生を終えるかを選ばなければならなかった。彼が生きてきた教育があり、2つ目を選んだということです。

大事なのは彼が優しさと、傷つきやすさをみせる数少ない瞬間をさがすことです。具体的には第1幕の最後のデュエット。

第3幕の「Dio! mi potevi 神よ、私にはどんな」の場面。

そして終幕の彼の死。これらは彼のキャラクターを演じるのに大切です。

それはヴェルディがオペラの結末として、我々の涙を誘う〈オテロの死〉を書いたという事実からもわかることです。オペラとしてはデズデーモナの死で終えることもできたのですから。彼は単なる殺人犯として。でもこの最後の5分間ですべては変わります。それは素晴らしい瞬間で、オテロ役の僕としてはヴェルディに感謝しかありません。

時代とともに変わる価値観と「伝統」を超えるということ

——この作品の人種差別的な側面について伺います。シェイクスピアも、ヴェルディも、これまで抗議の対象になってきました。ポリティカリー・コレクトネス(性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ、公正・中立的な表現)が提起されて以来、演出でオテロの顔を黒く塗ることも減ってきています。それに加えて女性殺しの問題もありますね。実際にその役を演じる人として、この側面はどう考えていますか? 自分が愛する女性を殺すのは酷いことですよね?

カウフマン 先ほどの話に部分的に答えは含まれていると思いますが、動機として彼が異国の人間であることは重要ではないのです。肌の色が黒くても、そこが焦点ではない。2017年にロンドンでデビューしたときにもこの問題を話し合ったのですが、シェイクスピアはロンドンを離れたことはなかった。彼が書いたことは、パブにおけるおしゃべりで聞いたエキゾチックな外国の話など、すべて人から聞いたことなのです。《オテロ》の舞台キプロス島は、当時の人たちにとってエキゾチックな土地の典型でした。

オテロの元になるいくつかのお話があり、そのうちのひとつはシチリア出身の男がヴェネツィアで働いていて、無実の妻を殺してしまったというものです。その男の名字がモーロだったので、そこからヴェネツィアのモーロ(ムーア人という意味)という設定になった。なのでオテロは昔のレコードや、過去の舞台写真にあるようなアフリカ系の容貌ではなく、少しアラブ系であったのかもしれません。そういえば、アラブの大使の肖像画がロンドンの絵画コレクションにあり、彼が美貌だったので、その肖像画を主人公にした、という話もあります。彼は誰かの愛人だったそうですが(笑)。少し浅黒く、髭が生えていて。

僕も、昨日ヨットに乗ったので日に焼けていますが、単にその程度のことなのかもしれません。いずれにせよ、僕を当惑させるのは、これらはすべてはシンボル(象徴)なのだということを人々が理解していないことです。彼がほかの皆と違う、という事実が問題を引き起こし、それが最後に死をもたらすのですから。

——その意味では、現代的な演出ではオテロの肌の色よりも、彼のパーソナリティに焦点をあてているものが多いですね。

カウフマン そうですね。皆が政治的な話を避ける、というよりは、世界は常に変化しており、演出も変化していく。その変化の進み具合は国によって違い、僕が住んでいる国では大きな変化がありました(ドイツは現代演出の先進国)。まあ少し変化しすぎではありますが(笑)。

でも考えとしては、「伝統」を超える、ということです。僕はいつも「伝統」には正しい伝統と、偽物の伝統があると言うんです。当時は検閲もあり、作曲家は本当に望んでいたことをすべて書くことができなかった。もしくは、これまで多くの歌手がそう歌っているから、慣習としてそうやるようになってしまった、という場合もあります。でも初めにそのやり方を採用した人は、実は正しく演奏する能力がないのでそうせざるを得なかったのかもしれません。「このフレーズさえ書かれた通りに歌わなくてよければ、僕もこの役が歌える」とか。後の人たちも、自分もそれを真似しよう、と。

これは正しくないです。だから僕はいつも伝統を尊重したいと考えてはいますが、まずその伝統がどこでどうして生まれたかを知るようにしています。それはオテロ役についても同じです。

パッパーノ オテロ役を歌ってきた偉大なる演者たちでさえ、スコアと聴き比べてチェックすると、皆が正しく歌っているとは言えないですから。楽譜を尊重することは、特に音のダイナミクス(強弱)についてはとても難しいのです。発声や、息継ぎの問題などで。もしくは伝統的な慣習に阻まれることもあります。演奏の決まりごとがありますから。

でも、ディスクの録音に関してはできる限りそのような部分を削ぎ落とさないといけない。古いニスを落とす作業というか。もちろん、僕たちの演奏は完璧だ、などと言うつもりはありません。しかし、そのような方向に努力しなければならないと思っています。

今後、ワーグナーの難役《トリスタンとイゾルデ》のトリスタンや、ブリテンの《ピーター・グライムス》の主演も予定にあるというカウフマン。現代最高のスター歌手の活躍から目が離せません。

井内美香
井内美香 音楽ライター/オペラ・キュレーター

学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...

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