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2022.11.26
ONTOMO作曲家辞典

ヴェルディの生涯と主要作品

ジュゼッペ・ヴェルディの生涯と主要作品を音楽学者の小畑恒夫が解説!

音楽之友社
音楽之友社 出版社

昭和16年12月1日創立。東京都新宿区神楽坂で音楽の総合出版、並びに音楽ホール運営事業を行なっています。

ジュゼッペ・ヴェルディ
Giuseppe (Fortunino Francesco)Verdi
1813・10・10 パルマ県ブッセート市レ・ロンコレ―1901・1・27 ミラノ

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文―小畑恒夫(音楽学者)

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ヴェルディの生涯

イタリア・ロマン主義オペラの最大の作曲家。イタリア・オペラは19世紀初頭ベッリーニとドニゼッティの活躍によってベル・カントからドラマ重視の方向へ舵を切ったが,その傾向をさらに大胆に推し進めたのがヴェルディである。彼は大衆的人気を保ちながら,新しい時代にふさわしい題材,物語の合理的展開,心理表現などを追求し,歌唱法やオーケストレーションにも工夫を凝らし,独自の方法で音楽とドラマの融合を成し遂げた。

10歳で教会オルガニスト、26歳でオペラ作曲家デビュー

ヴェルディは1813年10月10日,現在のパルマ県ブッセート市のレ・ロンコレという集落に生まれた(パルマは当時フランス領)。一族はブッセート周辺の村落に点在して宿屋・雑貨屋を経営していた。父カルロだけでなく,母ルイジャ・ウッティーニの家系も同業だった。ヴェルディはのちに劇場や出版社との交渉,著作権管理,農園経営などで優れた経営能力を発揮するが,そのルーツは一族の職業にあると思われる。

ヴェルディの血筋に音楽家はいなかったが,7歳の時に父から与えられた中古のスピネットで楽才を示し,10歳になった1823年にはレ・ロンコレの教会オルガニストに任命された。同年ブッセートの中学校へ進み,並行して25年からは聖バルトロメーオ大聖堂のオルガニスト,市立音楽学校の教師フェルディナンド・プロヴェージに作曲を学んだ。32年にミラノへ留学するまでの間,ヴェルディは行進曲,シンフォニア,ピアノ曲,カンタータなど様々な種類の音楽を作曲・編曲し,それらは富裕商人バレッツィが主宰する楽友協会の楽団によって演奏された。ミラノへは市の奨学金とバレッツィの経済的援助を得て留学したが,年齢制限を超えていたため音楽院に入れず,スカラ座の歌唱指導をする作曲家ヴィンチェンツォ・ラヴィーニャに個人的に師事し,スカラ座の公演も教材としながら,35年まで厳格な指導を受けた。

同年郷里に戻るとバレッツィの娘マルゲリータと結婚し,亡くなったプロヴェージの後任として音楽学校に就職した。しかし留学時代に育んだオペラへの夢を諦められず,39年にミラノへ移り,同年11月17日にスカラ座で処女作《サン・ボニファーチョの伯爵オベルト Oberto, conte di San Bonifacio》を発表し,オペラ作曲家としてデビューした。

《ナブッコ》初演を機に新作依頼が来るように

処女作の成功によってスカラ座に3つの新作オペラを書く契約が結ばれた。妻を失った1840年に書いた喜劇オペラ《1日だけの王様 Un giorno di regno》は不評だったが,《ナブコドーノゾル[ナブッコ] Nabucodonosor[Nabucco]》(1842初演)と《第一次十字軍のロンバルディーア人 I Lombardi alla prima crociata》(1843初演)の躍動感あふれる作風は聴衆を興奮させた。

他の劇場からも新作の依頼が来るようになり,44年にはヴェネツィアのフェニーチェ劇場に《エルナーニ Ernani》,ローマのアルジェンティーナ劇場に《2人のフォスカリ I due Foscari》,45年にはスカラ座に《ジョヴァンナ・ダルコ Giovanna d’Arco》,ナポリのサン・カルロ劇場に《アルツィーラ Alzira》,46年にはフェニーチェ劇場に《アッティラ Attila》を書き,それらの成功でヴェルディの評価は高まった。

ロンドン進出をきっかけにパリへ

立て続けの創作,劇場や出版社との交渉,初演および再演の指導など,のちに自身が「苦役の年月 anni di galera」と回想する忙しい生活のために健康を害し,《アッティラ》の直後に6カ月の休養を強いられる。しかし快復するとシェイクスピアを題材に斬新な《マクベス Macbeth》を1847年にフィレンツェのペルゴラ劇場で発表,さらにその年のうちに出版社ルッカの仲介でロンドンのハー・マジェスティーズ劇場に《群盗 I masnadieri》を,パリの出版社エスキュディエの仲介でパリのオペラ座に《第一次十字軍のロンバルディーア人》のフランス風改作《イェルサレム Jérusalem》を提供し,活動を国際的なものにした。

ロンドン進出をきっかけにヴェルディは49年8月までパリに住むが,その間に《ナブコドーノゾル》の初演でプリマ・ドンナを務め,引退後はパリで声楽教師をしていたジュゼッピーナ・ストレッポーニと同棲を始めた。正式な結婚は59年になるが,愛情にあふれ,知的で語学に堪能なストレッポーニは,ヴェルディの良き伴侶となり,仕事面でも重要な役割を果たすことになる。

《ナブッコ》のスコアを手にしたジュゼッピーナ・ストレッポーニ

《リゴレット》《イル・トロヴァトーレ》《椿姫》などロマン主義作家の戯曲を題材にした傑作

パリでのヴェルディは出版社ルッカと契約した《海賊 Il corsaro》(1848,トリエステ初演)を,また1848年の共和革命への興奮から愛国的な《レニャーノの戦い La battaglia di Legnano》(1849,ローマ初演)を作曲。

49年8月にはパリを引き払い,ストレッポーニを伴ってブッセートへ住居を移した。2人の同棲は保守的な郷里でスキャンダルになったが,芸術面ではヴェルディの心を成熟させ,作品に豊かな実りをもたらした。サン・カルロ劇場に《ルイーザ・ミッレル Luisa Miller》(1849),トリエステのグランデ劇場に《スティッフェーリオ Stiffelio》(1850),さらにフェニーチェ劇場に《リゴレット Rigoletto》(1851),ローマのアポッロ劇場に《イル・トロヴァトーレ Il trovatore》(1853),再びフェニーチェ劇場に《ラ・トラヴィアータ[椿姫] La traviata》(1853,いずれも初演年)が書かれる。シラー,ユゴー,グティエレスなどロマン主義作家の戯曲を題材にしたこれらの作品は,主人公たちの複雑な心の葛藤を感動的に描き出す傑作になった。

《ラ・トラヴィアータ[椿姫]》ヴォーカルスコアのタイトルページ

過去の経験を集大成した輝かしい傑作《アイーダ》

処女作から《ラ・トラヴィアータ》までの14年間に書かれたオペラは19作で,平均すれば9カ月に1作。その後はペースが落ち,《ラ・トラヴィアータ》から《アイーダ Aida》(1871初演)までの18年間に書かれたのは6作にすぎない(ただし改作を除く)。作品数減の主な原因はヴェルディの経済的安定に求められる。《エルナーニ》の報酬を元に郷里に購入した24ヘクタールほどの農地は,転売と,買い足しによって1851年にはサンターガタの107ヘクタールの農園になった。負債を完済したこの年,ヴェルディはここを住居と定めた。またフランスで先行していた著作権も定着し,楽譜の販売やレンタル料から収入を得た。

この頃からヴェルディはストレッポーニを連れてしばしばパリに滞在するようになり,ヨーロッパにおける音楽の新しい動向を積極的に吸収した。やがてオペラ座からの依頼でフランス風のグランド・オペラ《シチリアの晩鐘 Les vêpres siciliennes》(1855)と《ドン・カルロス Don Carlos》(1867,いずれも初演)が書かれる。その間にフェニーチェ劇場の《シモン・ボッカネグラ Simon Boccanegra》(1857),リミニのヌオーヴォ劇場の《アロルド Aroldo》(《スティッフェーリオ》の改作,1857)のような深刻な心理オペラも作曲したが,アポッロ劇場の《仮面舞踏会 Un ballo in maschera》(1859),サンクトペテルブルクの皇帝劇場の《運命の力 La forza del destino》(1862,いずれも初演)は明らかにグランド・オペラの様式を取り込んでいる。カイロの王立オペラ劇場のために書いた《アイーダ》(1871初演)は過去の経験を集大成した輝かしい傑作になった。

《アイーダ》ヴォーカルスコアのタイトルページ

イタリア・オペラの頂点ともなる2つの傑作《オテッロ》《ファルスタッフ》

イタリアは1861年に王国として統一されるが,著名な作曲家ヴェルディは大臣カヴールの要請を受け,イタリア王国の国会議員に立候補し,選出された。《アイーダ》を作曲した頃のヴェルディは芸術家としても経営者としても成功し,揺るぎない社会的地位を得ていた。《アイーダ》以後のヴェルディは,敬愛する国家的詩人マンゾーニを追悼する《レクイエム》(1874)を自発的に作曲したのを例外として,しばらく作曲活動から遠ざかった。

 

《レクイエム》の楽譜のタイトルページ

ヴェルディのオペラは劇場の重要なレパートリーであり続けたが,ヴァーグナーが提唱する「未来の音楽」の影響が強まり,若い作曲家たちの間にヴェルディやイタリアの伝統を否定するような風潮が現われる。「過去に戻ろう!」と語るヴェルディは伝統こそ創造力の源泉だと考えていた。イタリア音楽への危機感とヴァーグナーへの対抗意識を募らせたヴェルディはついに長い沈黙を破り,イタリア・オペラの頂点ともなる2つの傑作,悲劇《オテッロ Otello》(1887初演)と喜劇《ファルスタッフ Falstaff》(1893初演)をスカラ座で発表して世界を驚かせた。

ヴェルディのカリカチュア(1879)

ミラノに養老院「音楽家のための憩いの家」を建設

80歳を超えたヴェルディは晩年に《スタバト・マーテル》(1898)などいくつかの宗教曲を書く。また慈善事業としてミラノに養老院「音楽家のための憩いの家」を建設し,死後に著作権収入で運営できるよう計画した。1901年1月27日,ミラノのホテル・ミラーンに滞在中卒中で亡くなり,1897年に先に亡くなった妻と共に「音楽家のための憩いの家」に埋葬された。

ヴェルディのオペラの3つの様式

ヴェルディの26のオペラ(改作を除く)は様式的に大きく3つの時期に分けられる。第1期は処女作から《ラ・トラヴィアータ》までの19作で,イタリア・オペラの伝統を踏まえつつ,人間の心理をよりリアルに表現するために独自の形式を追求した。《ナブコドーノゾル》《アッティラ》などで強調される愛国的メッセージは詩人ソレーラの個性によるところが大きく,この時期のヴェルディの意図を忠実に反映する台本――ユゴーの戯曲による《エルナーニ》《リゴレット》,バイロンによる《2人のフォスカリ》《海賊》,小デュマによる《ラ・トラヴィアータ》など――はピアーヴェによって書かれた。

第2期を構成するのはグランド・オペラの様式を取り込み,ドラマに深い心理表現を融合させた《アイーダ》までの6作で,第1期に多用された「カンタービレ~カバレッタ」のような伝統的2部構成はほぼ姿を消して自由な形式となり,調性やオーケストレーションの面でも多分に実験的な試みが見られる。

第3期の《オテッロ》と《ファルスタッフ》ではヴェルディが求め続けてきたシェイクスピアの心理ドラマが,円熟した技法と斬新な着想によって見事にオペラ化された。形式面では楽曲を区切る番号オペラと決別し,ドラマは朗唱風に処理された歌唱パートと表情豊かなオーケストラによって途切れることなく展開する。この2作ではヴェルディの理念を完全に理解して台本を提供した詩人ボーイトの献身的な協力を忘れることはできない。

ヴェルディ研究の新時代

ヴェルディの創作期は国家統一運動の時代からイタリア王国の成立という激動の時代と重なっている。人間の心を描き続けたヴェルディのオペラにイタリア民族の魂が感じられるのは当然だろう。彼は偉大な芸術家として成熟したばかりでなく,時代とともに変化する劇場運営や著作権などの音楽ビジネスにも目を光らせ,経済的な成功も手に入れた。

晩年からはイタリア王国の政治的意図も加わって偉人化・伝説化が行われたが,20世紀末からは文献的研究に基づく再評価が進行している。また,1983年から刊行が始まったシカゴ大学編纂の批判校訂版(全集版)《The Works of Guiseppe Verdi》は初めて原典に基づく演奏を可能にし,ヴェルディの歌唱や解釈に新たな時代をもたらしつつある。

ヴェルディの主要作品

【オペラ】

《サン・ボニファーチョの伯爵オベルト》 1839初演 ; 《1日だけの王様》 1840初演 ; 《ナブコドーノゾル[ナブッコ]》 1842初演 ; 《第一次十字軍のロンバルディーア人》 1843初演 ; 《エルナーニ》 1844初演 ; 《2人のフォスカリ》 1844初演 ; 《ジョヴァンナ・ダルコ》 1845初演 ; 《アルツィーラ》 1845初演 ; 《アッティラ》 1846初演 ; 《マクベス》 1847初演,  改訂65 ; 《群盗》 1847初演 ; 《イェルサレム》[《第一次十字軍のロンバルディーア人》の改作]  1847初演 ; 《海賊》 1848初演 ; 《レニャーノの戦い》 1848初演 ; 《ルイーザ・ミッレル》 1850初演 ; 《スティッフェーリオ》 1850初演 ; 《リゴレット》 1851初演 ; 《イル・トロヴァトーレ》 1853初演 ; 《ラ・トラヴィアータ》 1853初演 ; 《シチリアの晩鐘》 1855初演 ; 《シモン・ボッカネグラ》 1857初演,  改訂81 ; 《アロルド》 1857初演 ; 《仮面舞踏会》 1859初演 ; 《運命の力》 1862初演,  改訂69 ; 《ドン・カルロス》 1867初演,  改訂84[《ドン・カルロ》として上演] ; 《アイーダ》 1871初演 ; 《オテッロ》 1887初演 ; 《ファルスタッフ》 1893初演   

【合唱曲】

民衆賛歌《ラッパを吹き鳴らせ》 (男声cho, p ) 1848 ;  諸国民の賛歌(独唱, cho , orch) 1862 ;  レクイエム(S, A, T, B, cho, orch) 1874 ;  主の祈り(cho) 1880 ;  聖歌4編:謎の音階によるアヴェ・マリア(cho) 1889改訂98 ,  処女マリアへの賛歌(2S, 2A) 1890頃,  テ・デウム(2cho, orch) 1895-96,  スタバト・マーテル(cho, orch) 1896-97

【室内楽曲】

弦楽四重奏曲  e  1873

【三重唱曲】

ごらん,白い月が(S, T, B, オブリガートfl, p) 1383刊

【歌曲】

6つのロマンツァ(1.墓に近づくな  2.エリーザよ,疲れた詩人は死ぬ  3.孤独な部屋で  4.暗い夜の恐怖の中で  5.心は平安を失い  6.悲しみの聖母様,憐れみください) 1838刊 ;  亡命者  1839刊 ;  誘惑  1839刊 ;  誰が美しい日々を私に返してくれるのか  1842 ;  人生は悲しみの海  1844 ;  彼女は美しかった,さらに  1844 ;  6つのロマンツァ(1.日没[第2稿]  2.ジプシーの女  3.星に  4.煙突掃除夫  5.神秘  6.乾杯[第2稿]) 1845刊 ;  哀れな男  1847刊 ;  捨てられた女  1849刊 ;  優しい人よ,取り除いてください  1858 ;  詩人の祈り  1858? ;  徽章   1861 ;  ストルネッロ  1869刊 ;  主よ,憐れみたまえ   1894刊    

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