ビリー・ヴァレンタインという優れたヴォーカリスト、そして宝物の曲たちを再発見できてるフライングダッチマンの新作 個人的には今年度のベストの一つだ
ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。
Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。
●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2023年8月号に掲載されたものです。
ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...
シンプリー・レッド以上にカッコいいサウンドなのに売れなかった
「トリクルダウン経済学」という言葉がありますね。富裕層が潤うほど、その富がこぼれ落ちて貧しいものも楽になって経済全体がよくなるという、正直言ってかなり怪しい理論です。理論として19世紀末からあったそうですが、この「トリクルダウン」という表現を最初に耳にしたのは1980年代でした。レーガン政権の時代にしきりに言われていたもので、そのレーガン政権の経済政策は「レーガノミックス」として知られるようになりました(そういえば日本でこれを白々しく真似してたものがありましたね)。
「レーガノミックス」は新聞でしょっちゅう読んでも、歌の歌詞として聴いた時はちょっと驚きました。その曲はシンプリ―・レッドの1985年のデビュー曲「Money`s Too Tight(To Mention)」でした。出だしから「仕事から解雇され、家賃が払えない、子どもに靴さえ買えない、銀行に行っても埒が明かない」、経済格差の犠牲になっている貧困者の叫びのような曲です。途中で「レーガノミックスの話をあちこちで聞く、議会でいろんな法案を通すけど、こっちのきつい状況は変わりやしない」と歌っている内容は厳しいけれど、曲調はファンキーで楽しく弾むものです。
シンプリー・レッドはイギリスのバンドですが、「議会」という言葉が使われているのでアメリカの曲だと、何となく分かります。でも、この曲が実はカヴァーだったことを知ったのは数年後でした。オリジナルを作ったのはヴァレンタイン・ブラザーズという人たちで、1982年に小さいインディ・レーベルから発売されたこの曲が当時アメリカのラジオでしばらくかなりかかっていたといいます。
1982年というと70年代終盤のファンクの勢いがまだ続いていましたし、そろそろヒップ・ホップが生まれようとしていたころでもありました。70年代からブラック・ミュージックの世界でさまざまな仕事をこなし、しばらく『オズの魔法使い』をソウル風に解釈したミュージカル『ザ・ウィズ』で働いていたビリーとジョンのヴァレンタイン兄弟は急にその仕事を失って、自分たちの生活が厳しくなったところで「Money`s Too Tight(To Mention)」の発想が生まれたのです。
シンプリ―・レッドのヴァージョンがヒットした影響でアメリカの大手のレコード会社がオリジナルを再発しようと交渉したものの、それを発表したインディ・レーベルのオーナーが不当に高い金額を要求したため話がこじれて、インディの販売力では結局ヒットに及ばず、87年にヴァレンタイン・ブラザーズは解散することになったのです。ぼくが彼らのレコードを聴いたのはちょうどその頃だったと思います。極めてファンキーなシンセサイザーのベイス・ラインとソウルフルなサックスの目立つ編曲で、シンプリー・レッド以上にカッコいいサウンドなのに、売り上げが伸びなかったのは実にもったいない話です。
その後ビリー・ヴァレンタインはソングライターとして活動することにしました。そのビジネスのパートナーはボブ・シール・ジュニアー。ジョン・コルトレインの多くの名作を生んだインパルス・レコード、後にギル・スコット・ヘロンの初期の作品を制作したフライング・ダッチ・レコードを経営した、ジャズの伝説のプロデューサーだったボブ・シールの息子です。
ボブ・シール・ジュニアーとの共作でビリー・ヴァレンタインは90年代にネヴィル・ブラザーズやレイ・チャールズに曲を提供したり、いろいろな人のバック・ヴォーカルを務めたり、他のソングライターが曲を売り込むために作るデモでヴォーカルを担当したり、もっぱら裏方に徹した仕事を地道に続けていました。
フライングダッチマン復活 その1作目がビリー・ヴァレンタイン
そして1996年に他界したボブ・シールのフライング・ダッチマン・レコードを息子が2020年に復活させ、その第一号のアーティストとして選んだのがビリー・ヴァレンタインだったのです。しばらくの間R&Bを離れてスタンダードなどを歌うようになっていたビリーでしたが、2020年はブラック・ライヴズ・マターが支配的な話題の年だったし、かつてのブラック・ミュージックのスタンダード、しかもメッセージ・ソングを特集したアルバムを作ろうと企画しました。コロナ禍のロックダウンなどのため制作に時間がかかって、ようやく2023年に発表されたアルバム『Billy Valentine & The Universal Truth』は個人的には今年度のベストの一つになります。
73歳になったビリーの歌声はソウルの黄金時代をそのまま引っ張っている器で、1曲目の「We The People Who Are Darker Than Blue」では作者カーティス・メイフィールドのファルセットを彷彿とさせつつ、イマニュエル・ウィンキンズのサックスとラリー・ゴールディングズのピアノを含む演奏はオリジナルとは違うジャズ寄りのサウンドになっています。
プリンスの「Sign of The Times」、スティーヴィ・ワンダーの「You Haven`t Done Nothin` 」、ウォーの「The World Is A Ghetto」など名曲ばかりの選曲ですが、どの曲もオリジナルの良さを守りながら、ベイスのピノ・パラディーノ、ギターのジェフ・パーカー、ドラムズのエイブ・ラウンズやジェイムズ・ギャドスンなどのサポートで独自の魅力を放っています。
ここで取り上げている多くの曲は50年ほど前のもので、最近は驚くほど自分が当たり前に思っている名曲を知らない人が多いので、こんな作品のお陰でビリー・ヴァレンタインという優れたヴォーカリストも宝物の曲も再発見されれば嬉しいです。
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