読みもの
2024.07.31
【Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画】ピーター・バラカンの新・音楽日記 26

マイケル・カスクーナ~ブルー・ノートをはじめ音楽家の貴重な仕事を丁寧に作品として提供した偉人

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。

Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。

●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2024年7月号に掲載されたものです。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

イラスト:酒井恵理

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ジャズ、ポピュラー音楽に欠かせない役割を持った人物

1980年代半ばにぼくの音楽試聴環境に大きな変化が起きました。それにはいくつかの理由があります。それまでは主にロックやソウルを聴いていたのですが、ドラム・マシーンの普及に伴って一時期ロックのレコードはどれも画一的な印象があって、つまらなく感じていたのです。

ちょうどその時期に新鮮味を帯びていたのは新しく国際的に発売されるようになっていた西アフリカのセネガル、マリ、ギネアなどフランス語圏諸国の音楽でした。そしてもう一つは、誕生したばかりのCDという新たなディジタル・メディアを使ってレコード会社各社が過去のレパートリーを再発する動きの中で、子どものころには存在すら知らなかった50、60年代のジャズが非常に魅力的に聞こえました。

その最たるものは、たぶんブルー・ノート・レーベルだったと思います。この連載で以前にも書きましたが、ぼくがブルー・ノートを最初に知ったのは70年代でした。すでに創設者アルフレッド・ライオンがリバティ・レコードに売却した後で、その後リバティも映画会社のユナイテッド・アーティスツに買収され、ブルー・ノートは段々コマーシャルな路線をたどるようになったものの、80年代初頭にはユナイテッド・アーティスツの親会社EMIの判断でついに事業を停止していました。

しかし、1984年にコロムビア(現ソニー)の社長だったブルース・ルンドヴァルがEMIに移籍し、マンハッタンという新しいレーベルを誕生させるとともにブルー・ノートを復帰させました。その時に彼がコンサルタントとして仕事を依頼したのがマイケル・カスクーナでした。4月20日に癌との闘病の末に75歳で亡くなったカスクーナは、ジャズを中心にポピュラー音楽史に欠かせない役割を果たした人です。

ぼくが彼のことを知ったのは1972年に買ったボニー・レイトの2作目のアルバム「Give It Up」のプロデューサーとしてでした。ボニーはジャズではなく、ブルージーな感じのシンガー・ソングライター的なイメージの歌手だったのですが、なぜかプロデューサーの名前が印象に残りました。その後レコード店で働いている時に発見して好きになったサックス奏者ロビン・ケンヤッタのレゲェとファンクが混ざったようなアルバム「Terra Nova」もこの人がプロデュースしていたのです。

また日本に来た直後に聴いた新人シンガー・ソングライター、ガーランド・ジェフリーズのデビュー作もそうでした。どれも個性的なレコードで、趣味のいい人だろうなと思っいたのですが、80年代後半以降、とくに日本で再発プログラムが目覚ましかったブルー・ノートの古典的なモダン・ジャズの監修者として彼の名前を常に目にするようになっていきました。

Mosaicレーベルを興しレアな未発表音源を発掘

マイケル・カスクーナは1948年、コネチカット州で生まれ育ち、9歳でラジオから流れるR&Bやドゥー・ワップの虜になっていました。ドラムズ、サックス、フルートを試したけれど、あまり上達せずその道を断念。でも、ジャズが好きになり、10代では未成年者の入場を許すニューヨークのジャズ・クラブに通うようになり、最盛期のセローニアス・マンク、マイルズ・デイヴィス、ジョン・コルトレインなどを聞いていたそうです。

バードランドに行っていたある時、近くに座っていたコルトレインのドラマー、エルヴィン・ジョーンズに声をかけ、ファンだと言うと「新しいアルバムを録音したばかりで、気に入ると思うよ。タイトルはA Love Supremeだ」と言われたという逸話もあります。1964年の作品なので当時のカスクーナ氏は16歳です!

その後大学在学中にラジオのDJをやるようになり、ライターとしても活動していましたが、アトランティック・レコードにプロデューサーとして雇われたのは70年代初頭のことです。それぞれの仕事の関係でいろいろなミュージシャンと話をする機会が多く、ブルー・ノートの話がたびたび出たのですが、そうこうするうちに未発表の音源が無数にあることを意識するようになったのです。何度頼んでも倉庫の中を覗かせてもらうことには至らなかったのですが、ブルー・ノートの宣伝を担当していたチャーリー・ルーリーと仲よくなり、83年に2人でMosaicという通販専門のレーベルを興しました。

レアな未発表音源をボックス・セットで販売するこのレーベルの最初の作品はブルー・ノートにおけるセローニアス・マンクの完全集で、大きな話題になりました。

Thelonious Monk – The Complete Blue Note Recordings

ぼくが初めて買ったMosaicのボックスはT-ボーン・ウォーカーの1940-1954の完全集で、その充実した解説書も含めて重宝しています。またギタリストのグラント・グリーンとピアニストのサニー・クラークが一緒にブルー・ノートに吹き込んだすべての録音を集めたボックスも素晴らしいです。

▼Grant Green: Complete Quartets With Sonny Clark

カスクーナ氏は未発表の音楽にこだわったのですが、それはその音楽が市場に出なければ存在しないのと同じだという論理でした。とくにジャズの場合は違うテイクが本番のアルバムに使われなかったからといって、質的に劣っているとは限らず、ただミュージシャンかプロデューサーの好みによる判断のことが多く、音楽文化を絶やさないためにできるだけそういう音楽の記録をきちんと残したい信条でずっと活動していたのです。

売り上げ至上主義が支配的な今の時代には実に貴重な仕事を丁寧に続けたマイケル・カスクーナの遺産が今後も残ることを祈ります。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

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