読みもの
2024.08.16
【Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画】ピーター・バラカンの新・音楽日記 27

ポリオの後遺症にさいなまれながらブルーズ、ソウル、ジャズとジャンルにとらわれない活動をしたデイヴィッド・サンボーン

ラジオのように! 心に沁みる音楽、今聴くべき音楽を書き綴る。

Stereo×WebマガジンONTOMO連携企画として、ピーター・バラカンさんの「自分の好きな音楽をみんなにも聴かせたい!」という情熱溢れる連載をアーカイブ掲載します。

●アーティスト名、地名などは筆者の発音通りに表記しています。
●本記事は『Stereo』2024年8月号に掲載されたものです。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

イラスト:酒井恵理

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ポリオ克服の治療から始めたサックス

幼児期の記憶は、人によって違うとは思いますが、ぼくは3歳くらいのことをうっすらと覚えています。匂いで気持ち悪くなって拒否した芽キャベツを父親に強制的に食べさせられたことがそうとうなトラウマになって、一生忘れません。

しかし、それよりはるかに深刻なことが3歳のときに起きたのが、先日78歳で亡くなったサックス奏者デイヴィッド・サンボーンです。

1945年に生まれた彼は小児麻痺を患ったのです。1948年はポリオがもっとも猛威を振るった時期だそうです。その前後にアメリカやカナダではジョウニ・ミチェル、ニール・ヤング、ジューディ・コリンズ、イギリスではドノヴァン、イアン・デューリーなどもかかりました。

ぼくが子どもの頃にはワクチンができていて、角砂糖に染みこませたものを服まされたのを覚えています。小学校の同級生にポリオを患った男の子が一人いて、重い障がいを持っている印象でした。

症状の出方はさまざまですが、デイヴィッド・サンボーンの場合は左腕、右足、そして肺にかなりの影響が出て、一年間入院していたそうですが、人工呼吸器をつけなければならないほどでした。病室に両親すら入ることができず、当時のアメリカではこの病気に対する恐怖がひどく、デイヴィッドがいないサンボーン家を近所の人が避けていたというのです。退院した後もサンボーンは2年ほど家で療養しなければならなかったのですが、しばらくの間は首から下が麻痺した状態で、左腕は右より明らかにやせていて、自分では障がい者の意識があって水着姿を他人に見せることはなかったそうです。次第に自分の体のことを受け入れるようにはなりましたが、何年かかかったと語ります。

治療の一環で、11歳の時に医師から、肺活量を高めるために管楽器を習うことを勧められ、サクソフォーンを始めました。肉体のハンディキャップがあるため高度なテクニックより自分だけのサウンドを築くことを意識するようになったといいます。また体をねじってサックスを吹く独特の姿勢も体僻によるものです。

▼2015年のライヴ映像

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彼が育ったセント・ルイスはアメリカのおへそと呼ばれる場所で、ミシシピ川に面した都市です。南部からシカゴの工場での仕事を目指して移住する人々がほぼ確実に通るところですが、セント・ルイスにはジャズやブルーズのミュージシャンが沢山いたわけです。子どものころ、仕方なく家で過ごすことが多かったサンボーンのそばには常にラジオがあって、気がついたらその辺の音楽が馴染みになっていました。

14歳の早さでセント・ルイスを拠点とするアルバート・キングやリトル・ミルトンといったブルーズ・シンガーのバンドで演奏するようになりました。その後シカゴのノース・ウェスタン大学で音楽を学び、さらにアイオワ大学でサックス奏者J.R.モンテローズに師事します。22歳となる1967年にカリフォルニアの方に移ります。
 
同じ時期にシカゴでやっていたポール・バタフィールド・ブルーズ・バンドも活気づいてきていたサン・フランシスコのライヴ・シーンに惹かれて拠点を移したところでした。当時のブルーズ・バンドとしては珍しく大きなホーン・セクションを加え、ブルーズとソウル・ミュージックの折衷を目指す斬新なスタイルを打ち出しましたが、そのホーン・セクションのアルト・サックス奏者としてデイヴィッド・サンボーンが加入し、4年在籍しました。
 
バタフィールド・ブルーズ・バンドが1971年に解散するとポール・バタフィールドと共にしばらくウッドストックにいたようですが、72年ごろからずっとニューヨークに拠点を構えて、早速スタジオ・ミュージシャンとして無数のセッションをこなすようになります。ホーン・セクションの仕事もありながら、彼のアルト・サックスの音色には瞬間的に分かる「泣き」があるため、ソウルフルな雰囲気が欲しいときは彼にソロを依頼する人が後を絶たなかったのです。75年以降は多くのソロ・アルバムも発表し、世界的に活動するようになりました。

▼サンボーンがサックスで参加しているJames Taylor「How Sweet It Is (To Be Loved by You)」(1975)

ソウルとジャズの中間で活躍したレイ・チャールズの音楽をとくに大事にした

1988年から2年間続いたテレビ番組「Sunday Night」(2年目は「Night Music」)のホスト役を務めたサンボーンを中心に、ベイスのマーカス・ミラー、ドラムズのオーマー・ハキム、ギターのハイラム・ブロックなどのハウス・バンドに毎週驚くような多ジャンルのゲストが加わり、ほかでは絶対に見られないような共演が生まれたのは音楽番組として実に画期的でした。音楽監督ハル・ウィルナーの手腕による人選ももちろん大きいですが、サンボーンの柔軟性と暖かみのある性格が肝心の番組でもありました。日本でも放送され、今もYouTubeでいろいろな映像が残っています。

一つのジャンルにこだわらなかったサンボーンはレイ・チャールズの音楽をとくに大事にしていたようです。まさにソウルとジャズの中間のところで独自のサウンドを持っていたレイのバンドで、アルト・サックスを担当したハンク・クローフォードにもっとも影響を受けたサンボーンは、レイに対するトリビュートのアルバムも制作しました。

▼レイ・チャールズへのオマージュ作品「Only Everything」

ポリオの後遺症はかなりあったそうです。長い海外のツアーから帰ると激しい痛みや、どうにも堪え難い疲労感に襲われることもありました。2018年に診断された前立腺癌との闘病の末に亡くなりましたが、あのエモーショナルな演奏はいつまでも聴き手の心の中で響き続けます。

ピーター・バラカン
ピーター・バラカン ブロードキャスター

ロン ドン大学卒業後来日、日本の音楽系出版社やYMOのマネッジメントを経て音楽系のキャスターとなる。以後テレビやFMで活躍中。また多くの書籍の執筆や、音楽イヘ...

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