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2025.04.11

ムソルグスキー《展覧会の絵》はどんな絵なのか? 各曲の題材となった絵の実態を解説!

ムソルグスキーが作曲した《展覧会の絵》は、どのような絵を題材に作曲されたのでしょうか? 絵を題材にした10曲と5曲のプロムナードから構成される《展覧会の絵》原曲ピアノ版の作曲の経緯とそれぞれの曲について、音楽評論家の増田良介さんが解説します。

増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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才能ある友人の急逝を悲しみ、遺作展へ

ムソルグスキーの《展覧会の絵》は、彼が展覧会で見た絵の印象をもとに書いたピアノ曲だ。となれば、それらがどんな絵だったのか見たくなるのは人情。ただ、それはなかなか簡単ではない。

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まず、この曲ができた経緯をおさらいしておこう。ムソルグスキーは、芸術評論家のスターソフの紹介で、ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)(1834~1873)という芸術家と知り合い、親しくなった。ハルトマンは建築におけるロシア様式の創始者のひとりとして評価されている建築家だったが、絵もうまく、オペラやバレエの舞台衣装なども手掛ける才人だった。

ところがハルトマンは、1873年8月、39歳の若さで急死する。ムソルグスキーは大きなショックを受け、悲しんだ。翌年の2月から3月にかけて、スターソフをはじめ、ハルトマンの才能を惜しんだ友人たちによって、ペテルブルクで遺作展が開かれる。ハルトマンの400点にのぼる作品が展示されたこの遺作展を見たムソルグスキーが、その印象をテーマにわずか20日ほどで書き上げたのが、組曲《展覧会の絵》だ。

ヴィクトル・ハルトマン(1834~1873)

遺作展にはヨーロッパ旅行中の大量のスケッチも

ハルトマンの絵の大きな部分を占めていたのが、彼が1864年1月から68年の秋までロシア国外に滞在していたときに描かれた、大量のスケッチだった。彼は主にフランスに住んでいたが、イタリア、スイス、ドイツも訪れ、見たものを片っ端から描いていった。《展覧会の絵》のタイトルには、ロシア語だけではなく、イタリア語、フランス語、ドイツ語、そしてラテン語もあるが、それらはたいていヨーロッパ旅行中のスケッチを題材にしている。

さて、ムソルグスキーが亡き友人への思いを込めて作曲したこの組曲は、1874年6月に完成したが、作曲者の生前には一度も演奏されず、出版されたのも没後の1886年だった。世界的に有名になったのは、ラヴェルが1922年に管弦楽編曲を行なってからのことだ、というのは、ご存じの方も多いことだろう。

ムソルグスキーが見た絵を見ることは可能か?

ここからが本題だ。ムソルグスキーが見たハルトマンの絵を、われわれはどれぐらい見ることができるのだろうか。

この曲は、ハルトマンの作品の印象を描く10曲と、作品から作品へと歩く作曲者自身の姿を表す、5曲の〈プロムナード〉からなっている。1975年、自筆譜のファクシミリ版がソ連で出版されたときには、ムソルグスキーがインスパイアされたと推定されるハルトマンの絵のカラー写真が掲載された。

だがそれらは6枚(5曲分)しかなかった。第6曲〈サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ〉は、2つの絵を組み合わせているから、6枚で5曲分だ。残りの5曲分は、所在がわからなかったのだ。遺作展の終了後、作品の多くは持ち主に返還されたり、販売されたりして、行方がわからなくなってしまった。ここに載せられたのは、遺作展のカタログに掲載されていて、のちにスターソフが書いた説明と絵の内容が一致しているものに限定されている。

ムソルグスキーの自筆譜の表紙

その後の調査でおもしろいのは、NHKで放送された、NHKスペシャル「革命に消えた絵画-追跡・ムソルグスキー『展覧会の絵』」という番組だ。これは、1991年にNHKが消滅直前のソ連で取材を行ない、放送したもので、のちに「追跡 ムソルグスキー『展覧会の絵』」(團伊玖磨・NHK取材班著、NHK出版 1992)として書籍化された(以下『追跡』)。この番組では、未発見の5曲についても、それぞれ、候補となりそうな絵を提示している。その中にはかなり無理のあるものもあり、昔から判明している5曲にくらべると信憑性は落ちる。ただ、調査はかなり大規模なものだったようで、貴重な情報が多いし、その過程を読むだけでもおもしろい。

各曲のタイトルと解説

以下に、1曲ずつ解説していく。タイトルは、一般的なものにとらわれず、楽譜に書いてあるものを直訳した。なお、ファクシミリ版に掲載されている絵は「掲載あり」それ以外は「掲載なし」と表示した。

1. グノーム(こびと)Gnomus(ラテン語)

掲載なし。グノームは地底に住む醜いこびとだ。遺作展の目録にも『グノーム』という絵があり、「クリスマスツリーの飾りのためのおもちゃ」という説明がある。スターソフは「くるみ割り人形のようだった」とも、「ついたての後ろにグノームがいる絵だった」ともコメントしている。『追跡』は、美術アカデミーの資料室で見つけた鉛筆書きのスケッチを掲載していて、これは確かについたての後ろにグノームがいる。くるみ割り人形かどうかはわからない。

2. 古い城 Il vecchio castello(イタリア語)

掲載なし。まず、遺作展のカタログにこのタイトルの絵はない。スターソフが楽譜に付した説明は「中世の城、その前で吟遊詩人が歌っている」。ハルトマンのほかの作品にも、この説明にぴったり当てはまる絵はない。

『追跡』は、3枚の候補を挙げる。城の絵が2枚、まずはグリンカの歌劇《ルスランとリュドミーラ》の舞台装置のデッサンとして描かれた『チェルノモールの城』だ。これは城の前に人影があり、吟遊詩人に見えなくもない。もう1枚は、フランスで描かれた『ペリギューの風景』で、ここに城はあるが人影はない。3枚目は、タイトルがイタリア語だからイタリアの絵ではないかということで、『イタリアの道』という絵だ。ここには修道院と人が描かれているが、城はない。

個人的には、作曲家ムソルグスキーにとってあまりにも身近だった《ルスランとリュドミーラ》の絵を見て、イタリアあたりの古城を連想するというのはありえないように思われる。ただ、ほかの2枚もあまりぴったり来ない。

「追跡 ムソルグスキー『展覧会の絵』」で候補に挙げられた3枚の絵のうちの1枚、『チェルノモールの城』

3. チュイルリー(遊びのあとの子どもたちのけんか) Tuileries (Dispute d'enfants après jeux)(フランス語)

掲載なし。チュイルリーはパリにある庭園。遺作展のカタログにも同名の絵が記載されている。スターソフによると、絵には子どもたちの姿が書かれていたという。

『追跡』は、ハルトマンがパリで描いた絵から、子どもの姿があるものを2枚掲載している。ただ、チュイルリー庭園でもなくけんかをしている風でもない。おそらく、「チュイルリーの庭で子どもが遊んだりけんかをしたりしている絵」はほかに存在したのだろう。

4. ビドロ Bydlo(ポーランド語)

掲載なし。カタログにこのタイトルの絵はない。スターソフは牛に引かれていくポーランドの荷車とするが、ハルトマンのほかの作品にも牛車を描いたものはない。

『追跡』は、19世紀のポーランド語でビドロは「家畜」のほか「(家畜のように)虐げられた人々」の意味もあったことから、牛車ではなかったのではないか、と「ポーランドの反乱」という別のスケッチを提示する。しかしこれについては番組のあと、一柳富美子氏が明快に反論している通り、やはり無理があるだろう。一柳氏はさらに、この曲だけはハルトマンではなく、ムソルグスキーが傾倒していたイリヤ・レーピンの『ヴォルガの舟曳き』に依っているのではないかという大胆な仮説を提示している。可能性としてはおもしろいが、もともと牛車を描いた絵があったが失われてしまったとするほうがありえそうだ。

イリヤ・レーピンはムソルグスキーの肖像画を描いた人物でもある

5. 卵のからをつけたひなの踊り Балет невылупившихся птенцов (ロシア語)

掲載あり。これは、《トリルビー》というバレエのための衣装デザインだ。《トリルビー》は、ボリショイ劇場のヴァイオリニスト兼指揮者だったユーリー・ゲルベル(1831~1883)の音楽、フランス出身の有名なダンサーであるマリウス・プティパ(1818~1910)の振付で、1870年にモスクワのボリショイ劇場で初演された。

物語は以下のようなものだ。トリルビーは、ベットリという若い女性の家を守るエルフ(精霊)だ。トリルビーは、彼女の飼う小鳥コリブリを守ることを誓っているが、ベットリに恋をしてしまう。彼はついに、ベットリに魔法をかけてエルフの国に連れていくが、ベットリの婚約者ヴィルヘルムが彼女を救い、トリルビーは死んでしまう。

なお、ハルトマンはほかにグリンカの《ルスランとリュドミーラ》やセロフの《敵の力》といったオペラのためにも舞台装置や衣装デザインを行なっている。

《トリルビー》のための衣裳デザイン

6.「ザムエル」・ゴルデンベルクと「シュミュイレ」"Samuel" Goldenberg und "Schmuÿle"(ドイツ語)

掲載あり。金持ちのユダヤ人と貧しいユダヤ人の対話だが、これは、1枚の絵ではなく、ハルトマンがムソルグスキーに贈った2枚の人物画が元になっている。彼らを対話させたのはムソルグスキーのアイディアと思われる。

現存する2枚の絵のうち、金持ちのほう(『毛皮の帽子を被った裕福なユダヤ人』)は、鉛筆、セピア、ワニスによって、肖像画として書かれ、完成されている。貧乏なほう(『老人』)は鉛筆、水彩により、肖像というよりもスケッチだ。

ただ、ロシアの美術史家ナターリャ・ムティアは、1999年に発表したハルトマンについての博士論文で、貧しいユダヤ人の絵とされているものは、実際には『赤いウエストコートを着て、自分の荷物にもたれて休憩する老いたイタリア人』という絵ではないかと指摘している。彼女によると、ムソルグスキーが所蔵していて、この曲のもとになったと思われる『サンドミエシュのユダヤ人』という絵は、未だに見つかっていないとのことだ。だとすると、二人のユダヤ人の絵のうち、現存するのはひとりだけということになる。

『毛皮の帽子を被った裕福なユダヤ人』
『老人』

7. リモージュ、市場(大きなニュース) Limoges. Le marché (La grande nouvelle)(フランス語)

掲載なし。リモージュ(フランス中部の都市)の市場での女性たちのにぎやかな言い争いだという。ハルトマンはリモージュで多数の水彩によるスケッチを描いた。『追跡』は、サンクトペテルブルクのサルトゥイコフ=シチェドリン図書館にある14枚のスケッチを提示する。それらの中には、確かに取っ組み合いの喧嘩をする二人の女性の絵もある。

ハルトマンによるリモージュのスケッチより、取っ組み合いの喧嘩をする女性

8. カタコンブ(ローマ時代の墓地) Catacombae (Sepulcrum romanum) ~死せる言葉による死者への話しかけ Cum mortuis in lingua mortua(ラテン語)

掲載あり。パリにあるローマ時代の地下墓地の厳粛な光景。ランタンの明かりで地下墓地を見学している人々の中には、ハルトマン自身の姿もある。ムソルグスキーの書き込みがある。「亡くなったハルトマンの創造精神が私をしゃれこうべたちへと導き、それらを呼び覚ます……しゃれこうべたちはぼんやり輝き始める」

この曲には〈死せる言葉による死者への話しかけ〉という書き込みがあり、これは後半部分(〈プロムナード〉の一種の変奏)のタイトルとして扱われることが多いが、案外、単に「死者と話す場合はやっぱり死語(=ラテン語)で」という、ムソルグスキーの冗談のようなものかもしれない。

ハルトマン《パリのカタコンブ》

9. 鶏の脚の上の小屋(バーバ・ヤガー) Избушка на курьих ножках (Баба-Яга)(ロシア語)

掲載あり。バーバ・ヤガーはロシア民話に出てくる魔女で、鶏の脚の上に建つ小屋に住んでいる。ハルトマンの絵は、この小屋を模した時計のデッサン(鉛筆)だ。

ハルトマン《バーバ・ヤガーの小屋》

10. 英雄の門(キエフの都にある)Богатырские ворота (В стольном городе во Киеве) (ロシア語)

掲載あり。1869年、暗殺未遂を逃れたアレクサンドルII世を記念してキーウ(キエフ)に建設される予定だった「英雄の門」のコンペティションのためのデザインだ。しかしこの計画は立ち消えとなり、門は結局建設されなかった。

ハルトマンによるキエフ市の門の設計図
増田良介
増田良介 音楽評論家

ショスタコーヴィチをはじめとするロシア・ソ連音楽、マーラーなどの後期ロマン派音楽を中心に、『レコード芸術』『CDジャーナル』『音楽現代』誌、京都市交響楽団などの演奏会...

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