《ラ・ボエーム》~同じ原作でオペラを書くライバルが出現!成功後初作品の評価は......?
2024年に没後100年を迎えたジャコモ・プッチーニ、現代においてもっとも上演回数が多く、たくさんの人々に愛されるオペラ作曲家です。記念すべき今年、オペラ・キュレーターの井内美香さんが彼の作品と人生を併せて「大解剖」していきます。
第2回は名作《ラ・ボエーム》作曲中に緊急事態発生! 同じ原作でオペラを作っている作曲家がいるだって!? そして前作で大ヒットを飛ばし、オペラ作曲家としての地位を確立しつつあったプッチーニ、最新作の評価はいかに?
学習院大学哲学科卒業、同大学院人文科学研究科博士前期課程修了。ミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとして20年以上の間、オペラに関する執筆、通訳、来...
ライバル出現! 同時進行していた2つの《ラ・ボエーム》
イタリア・オペラの作曲家レオンカヴァッロとプッチーニがある日、ミラノで出会いました。世間話をするうちに2人は、お互い相手がフランスの作家ミュルジェールの『ラ・ボエーム』を原作としたオペラを構想していることを知ってしまいます。
当時の新作オペラは、今でいうと新作映画のようなもの。成功すれば大きな興行収入が待っていました。次のオペラの題材がライバルと同じでは大きなダメージにつながりかねません。この出会いの後すぐに、プッチーニを擁する音楽出版社リコルディは自社発行の音楽新聞で、プッチーニがオペラ《ラ・ボエーム》を準備し台本作家ももう決まっていると発表します。
するとその翌日には、レオンカヴァッロが契約しているソンゾーニョ社がやはり自社の新聞に、レオンカヴァッロはもう何か月も前から彼自身の台本で《ラ・ボエーム》のオペラ化を準備しています、と掲載しました。
そしてその2日後、プッチーニ自身が、ミラノの日刊紙コリエレ・デッラ・セーラ宛に書いた手紙が同紙に載ります。そこでプッチーニは、この企画は彼一人のものではなくオペラ化を中止することはできない、それぞれオペラを書けばいいのではと主張し、「彼は作曲するでしょうし、私も作曲します。審判を下すのは聴衆です」と述べています。
これは、プッチーニが前作《マノン・レスコー》で大成功を収めた直後の出来事でした。リコルディ社はすでにプッチーニの次作を決定していたのです。《マノン・レスコー》で大きな貢献があったイッリカとジャコーザをふたたび台本作家に指名し、オーナー社長ジュリオも内容についての意見を活発に述べながら、密な共同作業によってオペラ《ラ・ボエーム》は完成への道を進んでいきます。
フランスのアンリ・ミュルジェール(1822-1861)の小説『ラ・ボエーム(ボヘミアン生活の情景)』は、同時代の貧しく自由な芸術家たちの日々を活写して大ヒットしました。成功を夢見るアーティストたちと、当時パリに多かった一人暮らしをする若い女性らとの自由恋愛も、読者の大きな共感を呼ぶテーマだったのです。
レオンカヴァッロはフランス語に堪能で文才があり、自身で台本も書いていましたが、ミュルジェール原作の特徴である自由恋愛に焦点を当てて、女性の登場人物を全員移り気なヒロインとして描きました。一方プッチーニは、台本作家たちとの間で何度も議論と抜本的な変更を繰り返した末に、イタリア・オペラの聴衆が求めている一途な愛を代表するカップルとしてミミとロドルフォを(原作の2組の恋人たちを組み合わせることによって)作り出し、彼らを、奔放なムゼッタとマルチェッロのカップルに対峙させました。結局、レオンカヴァッロのオペラは、プッチーニの1年3か月後に完成し初演されましたが、今日に至るまでプッチーニほどの評価は得られていません。
レオンカヴァッロ作曲のオペラ《ラ・ボエーム》
新居で結成したオペラさながらの芸術家グループ「クラブ・ラ・ボエーム」
プッチーニは《マノン・レスコー》を書いていた頃、トスカーナ州ヴィアレッジョ市の近郊のトッレ・デル・ラーゴを訪れ、静かなこの地に住むことを決めます。落ち着いて創作活動をするのに向いていたし、湖には水鳥も多く狩猟が大好きだったプッチーニにとって好立地でした。プッチーニはこの地で彼の多くのオペラを作曲しました。
彼が住んでいた館は現在、プッチーニ博物館として見学が可能です。
トッレ・デル・ラーゴでプッチーニは画家の友人らと一緒に、オペラさながらの「クラブ・ラ・ボエーム」というグループを作っていました。
湖畔に建っていた小屋をクラブ・ハウスとして、夜な夜な集まっては、食事をしたりカードゲームなどに興じていたのです。オペラ《ラ・ボエーム》が完成した時にいちばん喜んでくれたのも、このクラブのメンバーたちでした。
初演の評価は聴衆と評論家で真っ二つに?
《ラ・ボエーム》は《マノン・レスコー》と同じトリノ王立歌劇場で1896年2月1日に初演されます。指揮は後の巨匠アルトゥーロ・トスカニーニ。プッチーニはこの若き指揮者の才能に感嘆します。
1946年にトスカニーニが録音したプッチーニ《ラ・ボエーム》
3年前に《マノン・レスコー》が初演された時には、聴衆も評論家たちも賛辞を惜しみませんでした。しかし、《ラ・ボエーム》の初演は聴衆の反応は良かったものの、評論家たちからは批判されました。トリノの新聞ラ・スタンパの記事は「この《ラ・ボエーム》が芸術的に成功した作品であると述べることはできない」と書いています。
《マノン・レスコー》の、ドイツ的な厚みのあるオーケストレーションや複雑に絡み合う和声進行などが《ラ・ボエーム》では影を潜め、覚えやすいメロディーを中心にした大衆に迎合した音楽になってしまったと批判されたのです。
《ラ・ボエーム》が多くの人の心に残る美しい旋律に溢れているのは本当です。しかしそれだけでなく、ドラマに沿った音楽には斬新な作曲技法が駆使されています。そして若者たちの夢と愛を描いた傑作悲劇として、今日まで世界中の人々を魅了し続けているのは誰もが知る通りです。
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