マンガでたどるラフマニノフの生涯#10 ラフマニノフ、アメリカで期待される
作曲家の創作マンガを数多く手がけてきた創作マンガユニット・留守keyが、ラフマニノフの生涯を全12回でたどるマンガ連載。今回は、慣れぬアメリカ生活のスタート、そしてピアニストとしての名声が高まる中で、葛藤する作曲家の姿をお届けします。
http://rusukey.blog.jp主な作品:『B(ベー)〜ブラームス二十歳の旅路』コミックス全3巻(DeNA/小学館クリエイティブ)、学研マンガジュニア名作...
慣れぬアメリカ生活がスタート
1914年からヨーロッパを中心に勃発した戦争は次第に拡大し、1917年にはアメリカも参戦する。戦火は世界を巻き込み、第一次世界大戦と呼ばれるまでになっていた。
時同じくしてロシア国内では戦争による混乱と、以前から地鳴りのように疼いていた市民階級による帝政打倒の機運が大きく拡大し、ロシア革命、共産主義を標榜するソビエト政権へと進む。
混沌とした世情の中で、ラフマニノフとその家族は親しい人々の助けを得てロシアを脱出、北欧各国を経由してから大西洋を渡り、アメリカへと向かった。
そしてニューヨークに降り立った1918年。ちょうどその時期は第一次大戦が終結し、後半に参戦したアメリカは戦勝国として、祝祭的な盛り上がりをみせていた。
苦渋の決断で泣く泣く故郷を離れたラフマニノフ一家。心の傷も癒せぬまま、アメリカでの盛大な戦勝のお祭り騒ぎに何を思ったのだろうか?
心配していた住居や仕事などの手配は順調に進んだ。それまでにも過去に何度かアメリカで演奏を披露してきたことが功を奏し、音楽仲間やコンサートなどの主催者、大手ピアノ・メーカーなどからも手厚いもてなしを受けた。それがせめてもの救いだった。
「世の中が落ち着いたら早くロシアへ戻ろう」。早々にそんな希望を抱きながら、慣れぬアメリカ生活はスタートした。
名声はピアニストとしてのもの
ラフマニノフはアメリカでもすでに名の知れた存在であった。「革命を逃れてアメリカに渡ってきた」という背景ドラマも広告のように喧伝され、大いに歓迎された。
しかし、それはピアニストとしての名声であった。多くの演奏会が組まれ、ラフマニノフは請われるままにピアノを弾いた。
とりわけ人気があった楽曲は《鐘》と呼ばれる「前奏曲 ハ短調 作品3−2」で、どの演奏会、どの会場でもリクエストされた。あまりにもこの曲ばかりが望まれるので、ラフマニノフ自身は少々うんざりしたという。
また、時にはアメリカの国歌《星条旗よ永遠なれ》をピアノで弾き、聴衆の期待に応えることすらあった。
それでもラフマニノフは生活のため、自身の音楽家としての矜持のため、そして愛する祖国のためにピアノを弾き続けた。
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