読みもの
2019.06.15
日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.12

なぜ怪物が描かれたのか?——クリムトが描いたベートーヴェンのアヴァンギャルド

日曜ヴァイオリニスト兼、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが、美術と音楽について思いを巡らし、素敵な“ラクガキ”に帰結する大好評連載の第12回。

東京都美術館「クリムト展 ウィーンと日本 1900」で、クリムトの《ベートーヴェン・フリーズ》を前にしたラクガキスト。そのアヴァンギャルドな作風が、練習中のベートーヴェンの弦楽四重奏と共鳴してフリーズしてしまった......? 美術から見る、ベートーヴェンの新たな一面!

演奏するラクガキスト
小川敦生
演奏するラクガキスト
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

メイン写真: 東京都美術館「クリムト展 ウィーンと日本 1900」の《ベートーヴェン・フリーズ》(原寸大複製、1984年[オリジナルは1901〜02年]、216×3438センチ、ベルヴェデーレ宮オーストリア宮殿、ウィーン)展示風景

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列をなして空を飛ぶ精霊たち、奇妙なポーズの裸身の男女、黄金の騎士、美女に囲まれた怪物、抱き合って熱い接吻を交わすカップル……何ともアヴァンギャルドなモチーフの数々が描かれた壁画が、展示室の四方の壁の3面に設置されている。東京都美術館で開かれている「クリムト展 ウィーンと日本 1900」の展示風景だ。

作品タイトルは、《ベートーヴェン・フリーズ》。はたしてこのアヴァンギャルドな印象の壁画のどこがベートーヴェンなのか? 少しずつ見ていくと、合唱隊のような集団が一画にしっかりと描かれている。そう、交響曲第9番「合唱付」(「第九」)をテーマにしているのだ。

《ベートーヴェン・フリーズ》(原寸大複製、1984年[オリジナルは1901〜02年]、216×3438センチ、ベルヴェデーレ宮オーストリア宮殿、ウィーン)展示風景。合唱隊の前で裸の男女が接吻を交わしている。

オリジナルを超える迫力! 東京都美術館で《ベートーヴェン・フリーズ》を間近に見る

グスタフ・クリムト(1862〜1918年)は、ウィーン世紀末芸術の画家として名高い。作家の一生を俯瞰できる秀作が集まっている点で、まずこの展覧会には大きな意義がある。ただし、この壁画は複製である。オリジナルは、ウィーンの分離派会館という建物のためにクリムトが1901〜02年にかけて描いた全長約34メートルの大作である。

グスタフ・クリムト(1862〜1918年)。
《ベートーヴェン・フリーズ》が所蔵されているウィーンの分離派会館(セセッション館)。©Gryffindor

しかし、極めて精巧に、しかも原寸大で再現されたこの複製画には、筆者がウィーンでオリジナルの壁画を見たとき以上の迫力を感じたことを、強くお伝えしておきたい。東京都美術館の天井高の制約から、現在見ることができるオリジナルの壁画よりも低い位置に展示されている。そのおかげで、クリムトの描いたアヴァンギャルドな表現が間近に見られるのだ。

《ベートーヴェン・フリーズ》(原寸大複製、1984年[オリジナルは1901〜02年]、216×3438センチ、ベルヴェデーレ宮オーストリア宮殿、ウィーン)展示風景。ゴリラのような怪物は、悪の化身「テュフォン」。周囲の女性像も、肉欲や淫蕩を象徴しているという。

騎士が悪を象徴する怪物に立ち向かい、勝利を祝う歓喜の空気の中で愛が成就する。言葉で書くといわゆる勧善懲悪の物語のようだなとも思う。しかし、騎士も怪物も男女の裸体の表現も実に挑発的だ。むしろ不条理な世界を描き出しているようにさえ見えるのは、クリムトのアヴァンギャルドな創造性によるものだろう。

《ベートーヴェン・フリーズ》(原寸大複製、1984年[オリジナルは1901〜02年]、216×3438センチ、ベルヴェデーレ宮オーストリア宮殿、ウィーン)展示風景。金の鎧に身を包んだ騎士。巨悪に立ち向かおうとしているという。精霊たちが空を飛んでいる。

「古典派」の枠を打ち破る楽聖ベートーヴェン

翻って、壁画の題材になっているベートーヴェン自体はどうなのか? 交響曲第3番「英雄」や第5番「運命」などはモチーフの展開や緩急の変化が起承転結のある物語を想像させる半面、しっかり地に足をつけた盤石な音楽とも感じられる。西洋音楽史では「古典派」に組み入れられることが多い作曲家だ。

しかし近年は、「楽聖」とも言われるこの大作曲家のアヴァンギャルドな側面に注目が集まっている。

せっかくの機会なので、ベートーヴェンのアヴァンギャルドな側面について、筆者の日々の経験の中でひしひしと感じていることを取り上げておきたい。端的にわかるのは、弦楽四重奏曲だろう。

日曜ヴァイオリニストを自称する筆者は現在、第15番の演奏に取り組んでいるところだ。天上の奏楽のような響きにうっとりさせられ、誰かが悩みを語っているかのような旋律に心が掻き乱される。音列の繰り返しがあたかもミニマル・ミュージックのように響く部分があり、かなわぬ恋に胸が締め付けられるような切なさを感じるフレーズもある。オペラのレチタティーヴォのような部分があるのは、弦楽四重奏曲としては画期的だ。全編を巡る突拍子のない展開が、演奏者の予断を許さない。

壁画の題材になった「第九」はどうか。第4楽章に入るときにいきなり、暴力的とさえいえる音列が展開し、弦楽器と管楽器の間で会話を交わすかのようなやりとりが続いたあと、場面は一転し、チェロとコントラバスの斉奏で地の底から聴こえてくるような響きに耳をそばだてざるを得なくなる。アヴァンギャルドな試みは、時代を経てもなお、人々の心をわくわくさせ続けるものだということを実感している。

美術史家の前川誠郎さんの著書『西洋音楽史を聴く』によると、バロックやロマン派などクラシック音楽の時代ごとの潮流の呼称は、美術史を参照して当てはめられた部分が多く、必ずしも実際の動向に合ったものではないという。

前川誠郎著『西洋音楽史を聴く バロック・クラシック・ロマン派の本質』 (講談社学術文庫刊)

腑に落ちた。ベートーヴェンの曲に接して「なんてアヴァンギャルドな!」と感じるのに「なぜ古典派なのか?」と筆者が心の内に密かに持ってきたもやもや感は、前川さんのおかげで解消した。ベートーヴェンとクリムトの出合いも必然だったと考えたい。

Gyoemon作《ベートーヴェン・フリーズ(Beethoven Freeze)》

フリーズ違いの作品。映画「スター・ウォーズ」の中で凍ってカチカチになったハン・ソロのシーンがあったことを彷彿とさせる。しかし、ベートーヴェンの場合は凍ってもなお、熱いようだ。周りの空気が燃えている! Gyoemonはラクガキストを自称する筆者の雅号です。
展覧会情報
「クリムト展 ウィーンと日本 1900」

会期: 2019年7月10日(水)まで

会場: 東京都美術館(東京・上野)

演奏するラクガキスト
小川敦生
演奏するラクガキスト
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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