スーパースターが起こした“ビッグベンの奇跡”〜ロッド・スチュワート「エブリ・ビート・オブ・マイ・ハート」
インターネットがなかった時代、自らの手で数々の大ヒットを生み出した元洋楽ディレクター、田中敏明さんによるエッセイ。今回は世界的なヴォーカリスト、セックス・シンボルとしても人気を誇ったスーパースター、ロッド・スチュワートのエピソードを、田中さんが日本での宣伝を手掛けた数々の名曲とともに振り返ります。
1975年10月、大学4年からワーナー・パイオニア(後のワーナーミュージック・ジャパン)の洋楽で米ワーナー・ブラザーズ・レーベルの制作宣伝に携わる。担当アーティストは...
“ロック・シーン最高のヴォーカリスト”として名を馳せたスーパースター
奇跡を信じますか? 私はロンドンの“ビッグベンの奇跡”として、35年も経つ今も、ある出来事を思い出します。
その主人公、ロック界のスーパースター、ロッド・スチュワートの思い出を綴ってみたいと思います。私は1977年のアルバム『明日へのキックオフ(Foot Loose & Fancy Free)』以来、彼を担当してきました。
1978年「アイム・セクシー」が大ヒットして、アルバム『スーパースターはブロンドがお好き(Blondes Have More Fun)』は、ロッド最大のセールスを記録。
当時ツイストを率い、絶大な人気を誇った世良正則さんがロッドに傾倒していたこともあり、翌‘79年の来日公演では超満員の武道館に若い女の子の黄色い声もこだましました。
ロッド・スチュワートにはロック・シンガーの心意気を自ら示した『リード・ヴォーカリスト』というアルバムがありますが、数多くの優れたシンガーを輩出してきたブリティッシュ・ロック界でも、彼の才能は抜きん出ていました。
私は “ロック・シーン最高のヴォーカリスト”というキャッチフレーズでロッドを宣伝しましたが、当時33歳の彼はセックス・シンボルとしても世界中で人気絶頂期にあり、まさにスーパースターでした。
「世界紅白歌合戦」のために向かったロンドンでトラブル発生!
1986年の年の瀬、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」のプロデューサーが、紅白歌合戦の裏番組として「世界紅白歌合戦」を企画。ワーナーからは、佐藤淳さんが紹介したa-ha、ロッド・スチュワートの出演が決まり、米ワーナー・ブラザーズ本社から「トシ、ロッド側にはしっかり伝えてあるから、お前は立ち会うだけで、安心して行ってこい」と太鼓判を押され、私はその立ち会いのためロンドンに飛びました。
12月28日ロンドンのホテルにチェックインすると、世界紅白の現地でのコレスポンデントを担当していたカズ宇都宮さんからメッセージが入っていて、いまだにロッド側から、何の連絡も来ていないとのことでした。「万が一の場合はここに連絡するように」と教えられていた番号に電話をかけると、セキュリティが「ここはロッドのプライベート・ナンバーで、どのような理由であろうとも、何人も電話してくることは許されない」と、厳粛に諭すような口調で言われ、ホテルの連絡先を知らせて茫然と電話を切りました。
部屋に待機していると、ロッドのパブリシストから電話がかかってきたので事情を説明し、番組がいかに重要か説得を試みましたが、彼女から「ロッドは今クリスマス休暇中で、大晦日に日本のTV番組に出演するなど、そんな話はまったく聞いていない!」と言われ、途方に暮れてしまいました。
ワーナーのインターナショナルのトップだったトム・ルフィーノ宅に電話をかけると、息子が出て夫婦で旅行中との返事。次にアシスタントをしていたフィル・ストレイトの電話を確認し、夜中に叩き起こして、事情を説明しました。フィルはイギリス人でロンドンからワーナーへ赴任していたので、イギリスの音楽業界に精通し、ロンドンでも顔がきく人物でした。
同時にベイカー・ストリートにあったWEAインターナショナル(ワーナー・エレクトラ・アトランティックを束ねるワーナーミュージック・ジャパンの親会社)のオフィスにも連絡し、以前日本にも滞在していたWEAナンバー2のキース・ブルース氏にも事情を説明して、応援を求めました。しかし、WEAはアメリカ国外のマネージメント、管理の組織であり、アーティスト・リレーションの面では残念ながらサポートは期待できませんでした。
スーパースターが起こした奇跡
“ユー・ニード・ア・コート”と寒空の下で警備員に言われ、ロッドが来てくれる確証もないまま、大晦日の撮影場所だった倉庫街のスタジオで、寒さに震えながら、私は奇跡が起きるのをただひたすら待ち続けました。エイス・ワンダーなど、出演するアーティストが続々と集まり、リハーサルは進行していきました。
世界紅白のトリは、アメリカ中継のスティーヴィー・ワンダーの予定でしたが、すでに回ってきていたロッドの出番を奇跡が起きるのに賭けて、番組が順番を変えてくれていました。そのとき、本当にギリギリのタイミングで1台のリムジンが到着し、そこにロッド・スチュワートの姿があったのです! まさに奇跡の瞬間でした。
“トシ、お前来てたのか”と一言声をかけると、ロッドは早速スタジオへ。番組に出演していたバンド、スパンダー・バレエのメンバーがサインを求め、ロッドは余裕でサインに応え、番組がステージ用に準備していたスコットランドのバグパイプの一団を一瞥すると敬意を表して一礼、スタジオで「エヴリ・ビート・オブ・マイ・ハート」を歌い始めました。
ほぼ1曲歌うためだけの、慌ただしい短い滞在時間でしたが、まさにスーパースターの貫禄を見せつけてくれた一瞬でした。番組に穴をあけることなく、無事ロッド・スチュワートの「世界紅白歌合戦」の中継は実現しました。
想い出のビッグベンの鐘とアーティチョーク
多分、ロッドはあまり事情も聞かされることなく、マネージャーとパブリシストの説得に応じて、休暇中の一瞬を番組のために割いてくれたのでしょう。
番組中継が無事終了してから、カズ宇都宮さん、フジテレビのプロデューサー上原さん、当時ロンドンに住んでいらしたCHAGE and ASKAのお二人とイタリアン・レストランで労をねぎらい合いました。みんなでシェアした、まるごと塩茹でされたアーティチョークのなんと美味しかったこと!
新年早々にホテルをチェックアウトする際、アメリカへの連絡、東京のワーナーミュージックへのたび重なる連絡で電話をかけまくり、高額な電話代にフロント担当がびっくりしていました。
かなりタフな海外出張でしたが、大晦日のロンドンで起きた奇跡は、新年を告げるビッグベンの鐘の響きとともに、今もなお、私の脳裏に鮮明に焼きついているのです。
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