読みもの
2021.04.03
特集「嘘」/日曜ヴァイオリニストの“アートな”らくがき帳 File.24

絵画でも楽譜でも電信柱は邪魔者?〜電柱や電線は「不協和音」なのか

日曜ヴァイオリニストで、多摩美術大学教授を務めるラクガキストの小川敦生さんが訪れたのは『電線絵画展』という嘘のような展覧会。名の通り、電信・電柱が描かれた絵画を集めた会場で、小川さんが見た画家たちの「嘘」。そして、楽譜に現れる「電信柱」のお話。

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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電線・電柱を集めた絵画展!?

『電線絵画展』というウソのようなタイトルの美術展が、練馬区立美術館で開かれている。そもそも「電線絵画」などというジャンルが美術の世界にホントにあるのかと、いぶかしむ向きがいても不思議ではない。しかし驚くなかれ、本当に電線が描かれた絵画が、この企画展にはこれでもか、というくらいにたくさん集結しているのだ。

練馬区立美術館『電線絵画展』会場前風景

出品作がまた興味深い。まずは「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親の《常盤橋内紙幣寮之図》という逸品。明治初期、まだ電柱なんてあるのかよ、と言われても不思議ではない時期に制作された錦絵(多色刷りの浮世絵版画)だ。よく見ると、何と電線が五線になっているではないか! 規則正しく電柱が並ぶさま自体、ONTOMO的には楽譜を思わせる。

小林清親《盤橋内紙幣寮之図》(1880年、大判錦絵、練馬区立美術館寄託)展示風景

そもそも、この作品の主人公は明らかに電柱だ。一本一本の電柱が毅然と並ぶさまは明確なリズムを感じさせる。魂のこもった楽譜のように描かれた一枚だ。

電線を「理想化」させる、したたかなウソ

そして、実はこの作品には画家のしたたかさを感じさせるウソがある。画家本人による写生帖の同じ場面のスケッチと見比べるとよくわかる。写生帖では、電柱の背がこの錦絵ほどには高くなく、遠くの電柱はほぼ見えないくらいに小さくて粗い。

小林清親《写生帖6》(1879〜1913年頃)展示風景

後者は画家の記憶から再生したとしても、前者に関しては故意に電柱を高めに描いたとしか思えない。スケッチを錦絵に仕立てる段階でウソを描いたことがわかる。そしてこのウソには、電柱の存在感をより強くしよう、さらには神格化しようという画家の主張が込められていると筆者は推察している。肖像画でよくある、実物よりもかっこよく、あるいは美しく描くような「理想化」に通じる手法と捉えてもいい。

電線がだんだん楽譜に見えてくる......

筆者の「日曜ヴァイオリニスト」としての感想を述べるなら、音楽を演奏する場面でも、その曲の主要モチーフをいかに意識して表現するか、という演奏家の姿勢にも通じているように思われる。

そして、音楽の世界でも「電信柱」という言葉が時折使われる。筆者が日々目にしているヴァイオリンの譜面などで、五線よりも上に大きくはみ出た高い音程の音符が記された状況をたとえた言葉だ。即座に何の音であるかの判別がしづらいため、演奏が止まってしまうような場合に使われることが多く、否定的なニュアンスを含んでいる。

上: プロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第1番」第1楽章より(INTERNATIONAL MUSIC COMPANY版ヴァイオリンソロパート)ヴァイオリンの譜面でしばしば見かける光景。「電信柱」と呼ばれることが多い。

右: 街角の電柱風景(筆写撮影)。

一方、現代の一般の世の中でも、「電信柱」は必ずしも肯定的に受け止められているとは言いがたい。電信柱は電柱の一種だが、景観を害するという理由からしばしば疎んじられ、昨今においては撤去・地中化の対象になることが多い。つまり、音楽の世界においても一般の世界においても、電信柱は疎んじられる傾向にあるのだ。

海老原喜之助《群がる雀》(展示風景)
『電線絵画展』出品作。日曜ヴァイオリニストを自称する筆者には、譜面のように見える

描くウソも、描かないウソも芸術のため

電柱に関して少しマニアックな話に入ると、小林清親が描いたのは、実は電柱の中でも「電信柱」と特定できるものだった。電柱には電力柱と電信柱がある。前者は電気を送電するためのもの、後者は電報などの信号を送信するための電線を張ったものである。そして清親の時代には、まだ送電のための電線は街なかには張られていなかった。なんと明治の日本では、電信柱のほうが電力柱よりも先に立ったのだ。描かれた電信柱は時代の先端を行く文明開花の象徴であり、肯定的に受け止められていたらしい。

しかし、大正時代になると異なる風潮が出てくる。景観を乱す「不協和音」や「雑音」のような要素として捉える向きが現れるのだ。淡い色彩ながらも芳醇な味わいを持つ木版画の作家として知られる吉田博は、かのダイアナ妃もコレクションをしていたことで知られる。その吉田が表現した東京・隅田川界隈の風景には、電柱や電線が描かれていない。

吉田博《東京拾弐題 隅田川》(1926年、木版画)展示風景
吉田は風景から電柱を削除したうえで作品にした。

ところが、同じ頃やはり木版画の世界で活躍した川瀬巴水は、吉田と同じような隅田川の風景を描いたときにしっかり電柱を描いていた。

川瀬巴水《浜町河岸》(1925年、木版画)展示風景
吉田と同時代の版画家、川瀬の作品では、電柱がそのまま描かれている。

なぜ、吉田は電柱を描かなかったのか。それは、吉田が電柱や電線を忌むべき「不協和音」と感じたからにほかならない。日本山岳画協会の創設にもかかわり、次男に穂高という名前をつけるほどの山好きだった吉田は、自然をこよなく愛していた。

都会の風景を描くに当たっても、自分の感性に合わなかった電柱や電線をあえて排除したのだ。吉田の木版画は、誇張の多い伝統的な錦絵とは異なり、表現の写実性が高いだけに、電柱や電線を排除したのは「ウソ」ということになる。

かように芸術家というのは、ウソをつくものである。しかし、そのウソはしばしば心地よさを呼ぶ。それは芸術家が美を抽出する存在だからだ。逆に山口晃のように現代においても、あえて電柱を周囲の風景から取り出して描き、その大いなる美を発見した美術家もいる。

山口晃《演説電柱》(2012年、ペン、水彩、紙、個人蔵)展示風景

「不協和音」は、感性の違いで「協和音」にもなりうる。絵空事が楽しいゆえんである。

Gyoemon作《道端の楽譜》
今日のラクガキ。Gyoemon(筆者の雅号)は、ウォーキングをしている途上で、上を見上げると楽譜があることを発見した。
展覧会情報
『電線絵画展』

会場: 練馬区立美術館(東京都練馬区貫井1-36-16)

会期: 2021年4月18日(日)まで

詳しくはこちら

小川敦生
小川敦生 日曜ヴァイオリニスト、ラクガキスト、美術ジャーナリスト

1959年北九州市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業。日経BP社の音楽・美術分野の記者、「日経アート」誌編集長、日本経済新聞美術担当記者等を経て、2012年から多摩...

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