クイーンを日本に紹介したロックの伝道師、大貫憲章の仕事部屋
LP全盛に生きてきたロック界のレジェンドは、実は小社の常務と同級生だ。団塊の世代である2人が数十年ぶりに再会。あの頃の華やかかりし音楽業界でどう育ってきたのか、そこで形づくられた音楽観とは。1万枚以上にも及ぶマニア垂涎のLPと、現代のスタイリッシュな名スピーカーを傍らに、大貫憲章が語る。
ロック全盛70年代を導いた音楽観
音楽はまず自分にとってなくてはならないもの。それは多分、生まれつきと言うか、おふくろの背中におぶわれて鼻歌聴いてた頃とかの記憶も埋れてあるのかもね。
だから、強いて言うと、「聴いてて肌に合うものがスーッと入る」感じ。なので大事なのはなんでも聴くってこと。好き嫌いしないで。そのうちに自分に必要なものがわかるんだよね。経験です。好き嫌いでも良し悪しでもない、感覚だね。
今のようにネットを含め、さまざま情報が飛び交い拡散される時代と違って、俺たちの時代は情報が限られていて、まず会ってみて、話を聞いて、音楽に接して、の体験の積み重ね。
今の若者は、やれハイレゾだとか、やれYouTubeだと音楽を切り売りで聴いているけど、アルバムにはコンセプトがあり、アルバムジャケットには主義主張がある、そこを大事にしたいし、見て触って楽しめるのが面白いじゃない。
人それぞれ音楽に対する価値観があると思う。こうでなければいけないって思ってはいないが、ダンス音楽はいただけない、そこには主張がないね!
俺にとって音楽のない世界なんて信じられない。音楽はいろいろな指針を示してくれる。衣食住に続くものだね。
音楽は時代を映す鏡。俺にとっては生きるすべてだし、栄養剤だ。そして人生を導く羅針盤みたいなもの。そこから生きてゆく進路を導き出してくれる。
20年前に建てた自宅の地下は設計する際、耐久性や防振・防災、湿度、温度を考慮して、こだわって建てた仕事部屋。特に湿度には気を配り、20年間湿度調整をし続けている。以前シロアリにやられ、約2,000枚のLPを廃棄した苦い経験があるからだそうだ。
過去の雑誌や単行本、写真集、プログラム、チラシ等が置かれていて、LP棚には約13,000枚(他に友人に2,000枚ほど預けたまま音信不通)、CD棚には12,000枚以上が所狭しにおかれている。60~80年代のLP好きオジサンには(若者にも)よだれが出るほど珠玉の作品ばかりが揃っている。
卵形の名スピーカーのコンポ「イクリプスCDR1」
音楽と関わる毎日なので、仕事上ではパソコンで聴くのが都合いいし、便利だね。日常の中では音楽を楽しむよりは、時間を大切にしたいから。じっくり音楽を聴くということが最近ないかもしれないな。
デンソーテンのCDR1を見たとき、これってヘッドライトのようなスピーカーだよ! が第一印象。コンパクトでスタイリシュな製品だね。仕事部屋だけでなく寝室に置いてもいいな。
聴いていくうちに今まで聴こえてこなかった音が浮かび上がってきたのには正直驚いた。うん、なんていったらいいかな、これは違うぞ! 深い音、奥行き感があり、ぬくもりを感じたね。若い人にヘッドフォンで聴くのもいいけど、このCDR1を聴いて感動してもらいたいな、と率直に思った。そう、空気を震わせる音を感じたよ。
自分がプロデュースしたDJイベント「LONDON NITE(ロンドンナイト)」の作品をUSBに入れて聴いたんだけど、すごいね! 音像がグア~ンと押し寄せてきた。
聴いてみたいなと思った作品を何枚かピックアップしてみた。その中でも特に印象深かったのはホール&オーツのジョン・オーツがブルースで味付けしたディキシーランド・ミュージックのような作品「アーカンソー」と、ブルースロックをベースに、後にブリティシュハードロックのプロトタイプにもなった傑作、エンズレー・ダンバーの「エンズレー・ダンバー リタリエイション」。
オーツの作品は、弦の爪弾く音色とか、各楽器のきめの細かい質感と心地よい肌触りが自然と伝わってきたし、エインズレーの作品では、ドラムの低音でズシーンとくる迫力とギターのしなる音色で、自分の傍で奏でてくれる、そんな錯覚にも似た感覚を楽しめた。
忘れていた音を思い出したよ。アコースティックな作りの音でオープンマインドになって、60年代のブライアン・オーガーのハモンド・オルガンの音や、80年代のシンセサイザーなどのデジタルっぽい音、セックス・ピストルズなどのパンクやガレージ系のラフな音、いろんな音楽をどれも新鮮に聴けた。空気を震わせる音がいいね。
そしてなによりも、音楽を無心で聴けたことが最大の喜びだった。俺は今回このCDR1と出会い、これで音を楽しめることを見つけちゃったよ!
俺の音楽足跡
4歳あたりから音楽を聴いていたかな。意識して音楽を聴くようになったのが10歳ごろ。「ザ・ヒットパレード」とか「シャボン玉ホリデー」とか、洋楽の歌を日本の歌手が日本語で歌うTV番組を見ていた。だって、その頃は親父が「レコード買うなんて絶対ダメ!」と言っていたから。
63年ごろからエレキブームが起こり、とにかくベンチャーズがすごい人気で、来日公演で盛り上がりは一気に頂点にいったね。65年のベンチャーズ来日ライブ赤盤LP「The Ventures on stage」は俺が最初に手に入れたロック・アルバム。
東京オリンピック(64年)あたりから海外の音楽がどんどん日本に入ってきて、66年のビートルズの来日公演は社会現象までになり日本武道館を使用する、させないで物議を醸していたね。そのあたりからかな? TV番組「勝ち抜きエレキ合戦」とかラジオ番組「9500万人のポピュラーリクエスト」「S盤アワー」が若者の間で人気沸騰、洋楽の情報源だったのを覚えている。
高校時代、バンド活動をやって文化祭に出たかったけど、私立高で当時エレキをやるのは不良だとか素行が悪いとレッテルを貼られていて、学校側が禁止したから実現できず、陰でこっそりと仲間内のライブパーティでビー・ジーズの曲なんかやったりしていたな。そのときのお手本になったのがGS(グループ・サウンズ)で、よく学校の帰りに新宿に出て、裏口から入れてもらって見に行ってたからね。
音楽の世界で仕事を始めたのは、大学時代(立教大学)。1970年、1年生のとき、その頃平凡出版社(今のマガジンハウスの前身)で新雑誌(当初は平凡パンチの女性版的な構想をしていたらしいが、結局女性誌アンアンとなる)を立ち上げるための準備室が六本木にあったんだ。友人の付き添いでそこに行ったときに、編集者に「君、どんな音楽聴くの? なにか原稿書いたことある?」と聞かれ、「音楽大好きです。学校の作文くらいはあります」程度のやりとり。それがすぐに連絡があり、創刊時に本文ページ下の1段を使って、4枚のLPを50文字で紹介する仕事をもらうことになる。それが評論活動の出発点になった。
そこで出会った松山猛さん(フォーククルセイダースのヒット「帰ってきたヨッパライ」の作詞家でエッセイスト)が、新興音楽出版社(シンコーミュージックエンタテイメントの前身)の人気音楽誌「ミュージックライフ」編集部を紹介してくれたんだ。星加ルミ子編集長や東郷かおる子氏に引き合わされ、その場でEL&P(エマーソン・レイク&パーマー)のデビューアルバムを800字でまとめられる? と言われ、即答イエス!
内心50文字から800字、こりゃ大変だ! と思ったけど、書いた原稿を見てもらったら、好感度!! いいんじゃない! ということで、それ以降ブリティシュロックが好きだった俺はキングクリムソンなどの原稿を書くようになったわけ。
評論家人生の最初の節目となったのは、俺が日本人で最初に目を付けた、当時無名のイギリスのバンド、クイ―ン。日本でデビューするだいぶ前、1973年夏にイギリスに行って彼らを知ったが、音も聴いてないし、ライブも見てない。けど、名前からして「女王」なんてイギリスっぽいし、何よりピンとくるものがあったね。
その年の冬に、彼らのデビューアルバムのマスターテープがレコード会社に届き、聴いて「こりゃすごい! 絶対日本で売れる!」それまでにもひとりで大騒ぎしてたから、一気にクイーンの大貫なんて言われるようになったね。そもそもブリティシュロックの大貫だし。ただ彼らのデビューアルバムのライナーノーツの巻頭文は、俺じゃなく福田一郎先生。オレは2番手だった! 当たり前だよね(笑)。でも、そのライナーの締めのフレーズ「神よ、女王にご加護を!」は、大いにウケたよ(笑)。
大学卒業後は部活で広告研究会に入っていたので一応就職活動してインターパブリック博報堂(現在のマッキャンエリクソンの前身)に入社。コピーライターを志望していたが違った部署に配属。会社の規定でショクナイ(内職の意味)はご法度だったが、俺はもうその頃になるとかなり名前も売れてきて、会社の受付に入れ替わり立ち代わりにレコード会社のA&Rマンが原稿依頼で来るようになる(その頃は、当然携帯もパソコンもないから対面依頼だ)。
上司から懐疑的にみられ「大貫! なんだ? 次から次と仕事とは関係ない人が来るみたいだが」と言われたな。機会あるごとに「そろそろクリエイティブ部門のコピーライター、やらせてくれませんか?」「うんもうちょっとな」「いつになったらなれますか?」「うんそうね、もうちょっとね!」の繰り返し。
それで、キッチリ入社10か月で退社したんだ。
それから本格的な音楽評論活動に入ることになる。数多くの雑誌、ラジオDJなど仕事をこなしてきたが、大貫憲章を語るうえで、いわばそれまでの音楽活動が第1章であれば、ここからが第2章と言ってもいいかもしれない。それはパンクロックとの出会い。ざっくりというなら、第1章がブリティシュロックの大貫憲章、第2章はパンクロックの大貫憲章。ここからが現在に至るまでの前人未到? DJイベントのロングラン活動のスタートになる。
1976年。すべての発火点となったセックス・ピストルズとの衝撃的遭遇(雑誌やレコードでだけど)。アメリカ、ニューヨークのアングラなシーンで発生し、飛び火するようにイギリス、ロンドンでもブームが巻き起こり社会問題にまで発展したロックの異端児たるパンクムーヴメント。ダムド、クラッシュなどが脚光を浴びるが、中でも、ひときわ人々の耳目を集めたのがセックス・ピストルズ。音楽はもとより奇抜なファッションから人騒がせな言動など、彼らはメディアのスターだった。
当然のように日本でもパンクブームが巻き起こり、その勢いを、それまで日本のどこにもなかったロックDJイベントというものにそのまま持ち込んだのが俺の立ち上げたLONDON NITE(ロンドンナイト)。今年で38年を迎えるこのイベントは紆余曲折を繰り返しながら、結果的に多くの人々と関わってさまざまな余波、影響を生み出すまでになった。
当時29歳の俺は、クラッシュの全英ツアーに同行した際に接した生のDJに触発され、西麻布のショットバー、トミーズでDJをスタート。それが80年の1月末。今のロンドンナイトの出発点。本格的な始動は、新宿の大型ディスコ、ツバキハウスに進出したとき。正直言って、半年はガラガラ状態、それでもお店サイドがガンガン応援してくれたね。
それから徐々に口コミも含め広がり、“ロックで踊る”を標榜していたイベントが定着し、やがて87年終了時まで1,000人も入るディスコは毎回満杯になった。その後はP.ピカソ(西麻布)、第三倉庫(新宿)さらにミロスガレージ~ワイヤー(新宿)と転々とするが、今現在も下北沢を拠点に、全国各地でファンと熱いライブな交流を続けているよ。
還暦をとうに過ぎた今でも、気持ちやパワーは29歳のあのときと変わらないよ(笑)、3年後のロンドンナイト40周年でさえ、俺の通過点なんだよ。
大貫憲章が聴いたオーディオ「CDR1 508 PACK」
さらにコンパクトなモデル「CDR1 307 PACK」
購入特典
〈問い合わせ〉
(株)デンソーテン
Tel.0120-02-7755
https://www.eclipse-td.com/products/cdr1/index.html
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